「難思の弘誓」は、不可思議・不可称・不可説の本願、大願、お誓い、本願力のことである。私をお浄土へ、乗せて、連れて行ってくださる「本願丸」のことである。
大きな船であるから、生死の海がどんなに時化(しけ;暴風怒濤)でも、びくともしない。私を、安全に西の国まで乗せて運んでくださる。
この「本願丸の大船」が、今、生死の岸頭についておる。その大船が阿弥陀如来の誓願であり、名号であり、また光明である。
今「本願丸」が娑婆の岸に着いておるということは、私がきっと往生する証拠である。
「本願丸」が今現に、私のために来て、波止場に着いておる。「参れるやろか」「参られぬであろうか」「自分は信心を頂いたであろうか」「いただいておらぬであろうか」の心配は要らぬ、詮索もいらぬ、往生の準備も用意もいらぬ。このままで、大悲の願船に乗せてもらって、往くだけである。和讃に曰く、
「生死の苦海ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける」
と。
「乗せて必ず渡しける」とは、ありがたい。信ずるすべも知らず、乗るすべも知らぬ私を、「このまま」「乗せて必ず」渡してくださる、ありがたい。
「誓願」ということを聞いたら、「名号ー南無阿弥陀佛」と聞いたら、早や「わが往生は成就しにけり」と、いただけるでないか。
私の往生の証拠を「本願・名号」で見せてくださっている。ありがたいことである。
信心は如来さまのはたらき。こちらは、自然に「ありがとうございます、南無阿弥陀佛」と、お礼を申し上げるだけである。
とは言うものの、わが往生の証拠を、本願・名号のうちに、誓願・光明のうちに見届けるまでには、何十年の苦労が要る。わが往生の証拠を見せてもらえば、
「あら心得やすの安心や、
またあら往きやすの浄土や」
となる。
稲垣瑞劔師「法雷」第32号(1979年8月発行)
2 件のコメント:
「本願丸の大船」とあります。
聖道門は難行の苦しい陸路を歩むようなものですが、
浄土門は易行の楽しい水路を行くようなものです。
阿弥陀さまが直々に生死の岸に大船を着けてくださり、十方諸佛も「おまえの往生は南無阿弥陀佛と成就しておる」と懇ろにご証誠くださっています。これはこれは易いことです。
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