2021年8月8日日曜日

難思の弘誓は難度海を度する大船

 「難思の弘誓」は、不可思議・不可称・不可説の本願、大願、お誓い、本願力のことである。私をお浄土へ、乗せて、連れて行ってくださる「本願丸」のことである。
 大きな船であるから、生死の海がどんなに時化(しけ;暴風怒濤)でも、びくともしない。私を、安全に西の国まで乗せて運んでくださる。

 この「本願丸の大船」が、今、生死の岸頭についておる。その大船が阿弥陀如来の誓願であり、名号であり、また光明である。
 今「本願丸」が娑婆の岸に着いておるということは、私がきっと往生する証拠である。

 「本願丸」が今現に、私のために来て、波止場に着いておる。「参れるやろか」「参られぬであろうか」「自分は信心を頂いたであろうか」「いただいておらぬであろうか」の心配は要らぬ、詮索もいらぬ、往生の準備も用意もいらぬ。このままで、大悲の願船に乗せてもらって、往くだけである。和讃に曰く、

  「生死の苦海ほとりなし
  ひさしくしづめるわれらをば
  弥陀弘誓のふねのみぞ
  のせてかならずわたしける」

  と。
 「乗せて必ず渡しける」とは、ありがたい。信ずるすべも知らず、乗るすべも知らぬ私を、「このまま」「乗せて必ず」渡してくださる、ありがたい。

 「誓願」ということを聞いたら、「名号ー南無阿弥陀佛」と聞いたら、早や「わが往生は成就しにけり」と、いただけるでないか。
 私の往生の証拠を「本願・名号」で見せてくださっている。ありがたいことである。
 信心は如来さまのはたらき。こちらは、自然に「ありがとうございます、南無阿弥陀佛」と、お礼を申し上げるだけである。

 とは言うものの、わが往生の証拠を、本願・名号のうちに、誓願・光明のうちに見届けるまでには、何十年の苦労が要る。わが往生の証拠を見せてもらえば、

  「あら心得やすの安心や、
  またあら往きやすの浄土や」

となる。

稲垣瑞劔師「法雷」第32号(1979年8月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「本願丸の大船」とあります。

聖道門は難行の苦しい陸路を歩むようなものですが、
浄土門は易行の楽しい水路を行くようなものです。

光瑞寺 さんのコメント...

阿弥陀さまが直々に生死の岸に大船を着けてくださり、十方諸佛も「おまえの往生は南無阿弥陀佛と成就しておる」と懇ろにご証誠くださっています。これはこれは易いことです。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...