2022年5月26日木曜日

無碍光の利益より 威徳広大の信をえて

 無碍の光明(無碍の佛智)は、煩悩の心を、そのまま菩提の水に変えてくださる佛智のはたらき、本願弘誓のはたらきである。これを「一乗海」といい、また「弘誓一乗海」という。

 天親菩薩の「一心帰命」のおこころは、親鸞聖人の心の鏡にそのまま映った。
 また法然上人の念佛往生の心を、「信心一つじゃぞ」とお示しくだされたのが御開山様である。

 南無阿弥陀佛は招喚の勅命であり、またその勅命に順う信心も、勅命のうちに成就してくださっている。信心とて南無阿弥陀佛の本願力以外のものではない。これを「大行即大信」という。

 くるいのない信心、うごきのない信心を金剛心という。金剛心は菩提心である。菩提心は如来様が「よびごえ」をかけて、信ぜしめて、お助け下さる「みこころ」である。

 お念佛はよいものである。精出して称えさせていただくがよい。その中に大悲の本願力を味わわせていただける。佛心か自分の声か、その辺のところは詮索するに及ばぬ。

 南無阿弥陀佛は称えるのが易いからというだけではない。功徳が勝れていることを知らしめんがための思し召しである。易く称えさせて、易く名号不思議の功徳力を信ぜしめんがためである。

 念佛者は、世間の道徳の標準より一分でも一寸でも高く出ていなければ、人が佛法を聞いてくれぬ。これは念佛者のつつしみである。

稲垣瑞劔師「法雷」第54号(1981年6月発行)

2022年5月20日金曜日

不思議、不可思議の親様

 極楽へ参ったならば楽しむ暇もあらばこそ。直ぐに心に如来の大悲心を薫じて法界に遊ぶ。娑婆に帰ったならば、苦は苦ながらに法を説く。法楽、喜楽かぎりなし。往っては帰り、帰ってはまた往く。往復無際、本願力を味わいながら、本願力を説く。楽しみの中の楽しみである。

 「阿弥陀さまは、ようまあ私をよんでくださったものだ」と思う。無限のよろこびがこのうちに在る。

 自分が称えるお念佛ではあるが、称えさせていただくのである。本願力によって如来様御自らのご出張である。称えさせていただいている中に、佛智の不思議、不思議の勅命を感得せしめられる。

 釈迦・弥陀二尊の大悲によりて、弥陀の願力を仰がせてもらう。そこに「そのまま来たれ」「心配するな」の声が響いている。如来の大悲心に打たれたのが「一心の佛因」(信心)というものである。信心は、取るとか掴むとか握るとかいったものではない。

 当流は如来様の勅命(仰せ)に順うのみである。それを、信知するとも信順するとも、疑いが晴れたともいうのである。凡夫の力ではいかん。永い間の光明照育のおかげである。これを宿善という。

 阿弥陀如来は、私どもを摂取して捨てたまわぬ親であり、南無阿弥陀佛である。摂取不捨の願力を一南無阿弥陀佛に成就して、「心配するな」とよんでくださっている。
 摂取不捨の願力は不思議の力である。光明寿命のお力、正覚のお力、真如の功徳、願行の功徳、万善円備の功徳がこもっている。ただただ不思議、不思議と仰ぐのみである。

 如来様がありがたい。ただ如来様がありがたい。衆生の信も行も成就して、立っていてくださるおすがたが、帰命盡十方無碍光如来である。
 如来様が生きておられたら、何の不足があろう。この世も如来様、未来も如来様である。

 如来様の願力はそのまま佛智である。それで「如来の智願海は深広にして涯底なし」というのである。私を助けたもう不思議の佛智である。佛智の不思議を不思議と信じさせていただく外に佛法はない。

 如来様は、御自身の正覚の功徳力で衆生が助かることを知ってござる、信じてござる、疑いがない。この如来の無疑の真実心が、願力廻向の力で私にとどいてくださる。必ず徹ってくださる。徹ったところ「これはこれは」「ああ忝い」となる。不可思議の御利益である。  
 「これはこれは」と私のはからいがすっかり取り去られ、迷心の雲霧が払われて、見れば本願力の月かげ一つが皓々と光っておる。

稲垣瑞劔師「法雷」第54号(1981年6月発行)

2022年5月12日木曜日

宝珠の燈炬(2)

 佛教はむつかしい。しかし他の宗旨ならば師匠なくしても、ある程度までは自学自習でやれないことはない。
 真宗の御本書『教行信証』は自学自習ではいかぬ。独学でやれば怪我をする。脱線しない者はほとんど無い。師匠は常々そう言うておられた。

 真宗は、学問としてこれを学ぶ時には、易いようで実はこれほどむつかしい学問はない。信心なくしては、学問としてもわかるものではない。そこが真宗の特色である。それ故むつかしいというのは安心がむつかしいのである。禅の悟りを開くほどむつかしい。

 ところで、ここに自分が本当に信ずる信心の行者、あるいは先生があって、その人が「末代無智の御文章か聖人一流の御文章だけでお浄土へ参れる、その外に佛法なし」といって、間違いなくその真意を授けられたら、恐らく一通の御文章で信をいただくであろうと思われる。


 「何のために佛法を聞くのであるか」と問われたら、答えて曰く、「私の出離のために聞くのである」と。
 出離の要道を南無阿弥陀佛のよびごえの中に決したら、それより後は唯だ如来様を讃仰し、南無阿弥陀佛の本願力を讃嘆するばかりである。
 何のために讃嘆するのかといえば、讃嘆のお念佛はこれまた如来の本願力に由るのである。讃嘆すれば佛法が弘まる。「正覚大音響流十方」の本願力がそのままあらわれて下さるのである。現世利益の眼を以ては佛法はわからぬ。

 佛法は、頭があって暇があって、聞こうと思えばいつでも聞かれるように思うておるが、なかなかそうではない。佛法を聞くのは、よくよくの因縁である。その因縁をよろこばなくてはならぬ。聖人は「遠く宿縁を慶べ」と仰せられた。
 よい父母を持ち、よい師匠を持ち、真宗の家に生まれ、佛書に恵まれ、善友に取り巻かれ、五十年七十年佛法の水につからせていただいた慶びは何ものにも代えられぬ。

 辛い目に遭い、苦しい目に遭うたとき、その時に苦しみのうちから佛法をよろこばせていただく、ここが佛法の徳というものである。


 「このまま」のお助けである。落ちるものをお助けの御本願である。
 落ちるままお助け下さるのであると、そこまでは聞き覚えておるのであるが、どうももう一つ落ち着かれぬというのは、本願力の尊さ、忝さに眼をつけぬからである。阿弥陀さまが二利円満の大正覚の如来であり、若不生者不取正覚の誓願そのままの如来様であるということが憶われぬからである。

 凡夫が往生できるというのは、如来様がおられるから助かるのである。誓願の通りに助けて下さるから助かるのである。よんで下さるから助かるのである。
 自分のいただき振りに眼をつけないで、如来様のお手許に眼をつけさせていただき、御本願が凡夫の私に相応しておる尊さ、忝さに眼をつけるがよい。

稲垣瑞劔師「法雷」第53号(1981年5月発行)

2022年5月4日水曜日

如来さまが付いていて下さる

 いざ臨終となると、頭はぼうとして、心は千々に乱れ、今まで覚えたことも、聞いたことも、どこへやら吹き飛んでしまう。病気の苦しみで、油のような汗を流して、吐く息ばかりである。眼も見えぬようになり、耳も聞こえぬようになる。
 それでも有難い、願力摂取はまことであるから。親様は付いていてくださる。人間は絶対無力にならぬと、本願他力の味は分からぬ。「死」は厳粛である。

 佛法は自己の生死解脱が先決問題である。信心の光のみが真に社会を浄化する。

 誰も彼も、往生はただ願力摂取によって往生するのであるから、こちらとしては、ほんとうに「ただのただ」である。それでこそ一味の安心と言える。「ほんにまあ、ただのただであった」と実感の琴線から出る言葉は尊い。

 その人の人格を信ぜぬ人に、いくら法を聞いたとて損をすることが多い。先ず自己が信頼する人を捜し求めよ。信心の人あれば法は得やすく、人がなければ信心は得難い。

 お釈迦様の智慧と慈悲と、悟りの深さは、あまりに深くて分からぬ。深さが分からぬと言う人は、佛智不思議に満足しきった人である。お釈迦様が佛陀であると知られたら、その人はえらい人だ。

 佛法者のよろこび、眼の光り、口の動き、歩き振りまで、その底に不可思議な何ものかがあるように感ぜられる。智慧光が底に躍動しておるのである。

 日頃佛法に心を寄せておると、心静かに、ぼんやりしておる間にも、無意識の霊感がある。
 一生懸命に佛法をやっておると、天魔外道もどうも手の出しようがないと見える。心を浮世の泥水にのみ浸けておると悪魔がつけ込む。

 こちらは忘れていても、如来さまは心臓の鼓動の中にも、呼吸の中にも、血管の中にまで入って、いつも付いてござるから、人生力強く、心静かに働けるのである。これは心光常護の益である。

 いつも如来さまの前に引き出され、いつも如来さまに憶念され、いつも如来さまが付いていて下さっておると思えば、自分は赤児のような気持ちになり、大船に乗ったような心地がする。

 「これが信心じゃ」というものは、自分の心の中を探ってみても見つからぬ。ただ不可思議に親様がたよりになる。佛法は「如来さまがありがたい」という気持ちである。それが自ずから口にあらわれるのが、お念佛である。

稲垣瑞劔師「法雷」第53号(1981年5月発行)

No.139