2021年12月24日金曜日

佛法力の不思議には

 「難思の弘誓は難度海を度する大船」
とは、「本願力にて往生す」ということである。
 「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
とは、佛智の不思議で罪が消えること。罪が消えて、往生させていただく、これが佛法じゃ。
 この二句が浄土真宗の極意である。この外に浄土真宗なし。

 自分が信心取って、自分が念佛称えて参ろうとするのは、皆自力。他力は如来の本願力である。「難思の弘誓」である。名号は無礙の光明である。本願と名号があれば、何の不足もない。これで万劫の渇(まんごうのかつ)が治(じ)せられる。

 本願・名号を「佛法力」という。佛法力は不思議じゃ。諸邪業繋も佛法力の前には朝日の前の露で、消えて跡形もなし。
 本願・名号は「法」(他力)である。法を見つめ、法を聞き、法に丸められて往生するのである。それを佛智の不思議という。
 佛智の不思議を「不思議やなあ」と信じたのが信心である。それが報土の因である。

 本願・名号は佛力じゃ、佛力にあらずんば佛果は得られない。佛力を佛力のごとく説いたのが浄土真宗である。

佛心 佛力 本願力
 本願力にて往生す

稲垣瑞劔師「法雷」第39号(1980年3月発行)

2021年12月16日木曜日

安心

 正覚の不思議・願力の不思議・佛力の不思議・佛智の不思議、不思議 不思議で参る極楽。
 不思議を他の言葉で表したら「親様」ということになる。
 如来様は「親様」である。「親様」から見れば、子供の善悪はなし。いかなる子も一様に御慈愛くださる。大悲の如来様は大悲の親様である。

 大悲の親様は、
  見てござる
  護ってござる
  待ってござる
    お浄土で待ってござる
  心配することはない。「このまま」である。

 佛智の不思議・願力の不思議は「親様」と同じことである。
  本願力にて往生す。
  佛智の不思議にて往生す。
  親様が待ってござる。

 往生は、
  親様ござる 何の事ないわい。

 凡夫は妄念のかたまり、タドン玉。芯の芯まで妄念ばかり。思うこと、すること、皆妄念。
 タドン玉が「知っておる」「思うておる」では参られぬ。

 「佛心」「佛力」「本願力」の火がつけば、タドンでも火になる。親様が私のそばに来て下さった、タドン玉が火になる。不思議じゃ、不思議じゃ。
 「親様」と言えば、不思議 不思議より外にはない。
 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛

稲垣瑞劔師「法雷」第38号(1980年2月発行)

2021年12月8日水曜日

称性の法門

 大智大悲は絶対の善である。絶対の善に対する、衆生のための現象の世界は「浄土」である。
 「佛」を論ずるにしても「浄土」を説くにしても、絶対の善であるところの大智大悲が、その根本であり、地盤である。
 ところで、佛はその大智大悲の絶対善をどこから、どうして得られたのであるか。これが大問題である。佛はどこから生まれたのであるか。浄土の法門はどこから生まれたのであるか。これが大問題である。

 キリスト教では、何もかも神から出で、神の為したもうところであるといえば、不完全ながらそれで一応の説明はつくが、佛教は真理の宗教なるが故に、そう簡単には片付けられない。

 阿弥陀如来は、絶対の真理、すなわち「真如」から生まれられた。
 「証巻」に曰く、
 「然れば弥陀如来は如(真如、絶対の真理)より来生して、報・応・化種々の身を示現したもう」
と。

 『教行信証』の大法門はどこから生まれたか。これまた、真如から生まれたのである。
 「行巻」に曰く、
 「大行(南無阿弥陀佛)は・・・真如一実の功徳宝海なり」
と。「信巻」に曰く、
 「大信心は・・・真如一実の信海なり」
と。「証巻」に曰く、
 「真実の証を顕さば、則ち是れ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり」
と。「無上涅槃」とは絶対の真理である。

 「教」すなわち『大無量寿経』はどこから生まれたかといえば、釈迦如来の大寂定、すなわち禅定(弥陀三昧)から生まれたのである。「大寂定」は絶対の真理の世界である。

 しかれば『教行信証』の大法門は、これすなわち法界の絶対の真理から生まれたのである。絶対の真利から生まれた法門を、「性海自然の法門」といい、「称性の法門」(法性に称(かな)った法門)という。

 浄土真宗は、普遍的・絶対の真理であるところの法性から、法性それ自身の功徳力用が、自然に凡夫の濁悪なる世界に顕現したものである。その顕現した法門が「教行信証」である。
 これを真理の顕現といってもよいが、真宗では「佛智の顕現」「大悲の顕現」「果上(佛の涅槃界)顕現」という。「称性の法門」とはこの意味である。

稲垣瑞劔師「法雷」第37号(1980年1月発行)

No.139