南無阿弥陀佛が何故そんなに尊いのですか。
それは如来様が尊い、如来の本願が尊い、正覚が尊いのである。ただ尊い尊いと言うても、信ぜられまい。聴聞はその尊いことを聞かせてもらうのである。
お慈悲の佛智の、南無阿弥陀佛の「まこと」が届いて下さったのが信心である。
また如来様の念力 願力 南無阿弥陀佛の「まこと」が届いて下さったのが信心である。
凡夫の知解(ちげ)や思いと、如来回向の信心とは違う。
まことの信心は、大悲のよびごえ、佛智のよびごえ、本願力のよびごえ、南無阿弥陀佛のよびごえである。
南無阿弥陀佛を何と思うてござるやら。如来様の功徳の全体である。その功徳力用によってのみ、衆生は往生するのである。
如来様のよびごえをどう聞いたらよろしいか。
答えて曰く、どうもこうもあるもんかい。臨終に火の車が見ておるではないか。「ああ、うれし」より他に何もない。
佛法を、お寺の本堂で聞くのだと思うておるからいかん。地獄の中で阿弥陀如来に一目お目にかかったら、「ああ、うれし」の他はあるまい。
地獄の中の如来様が佛法じゃ、地獄で佛法に遇うた心地より他に佛法もなく、信心もない。
聴聞は何を聞くか。自分の罪の深いことと、如来様の尊いことを聞いて、なるほどと心の底からいただかれたら、それが信心である。この他に信心なし。
稲垣瑞劔師「法雷」第43号(1980年7月発行)
2 件のコメント:
どうもこうもあるもんかい。臨終に火の車が見ておるではないか。「ああ、うれし」より他に何もない。
とありましたので、火車を調べてみました。
火車は、猛火に包まれた車、の意で、地獄の使者である獄卒羅刹が罪人をこれに乗せて地獄に送り、はたまた地獄において罪人を苛責するために使う、とされる車である。
沙加戸弘(大谷大学教授)
を引用させていただきました。
「火の車 作る大工は なけれども おのが作りて おのが乗りゆく」
昔から詠われていますね。
地獄へゆく心配はありませんが、佛法を傷つけないために、慎んで慎んで生活させていただかなければなりません。
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