2022年3月4日金曜日

よんでくださればこそ

 南無阿弥陀佛が何故そんなに尊いのですか。
 それは如来様が尊い、如来の本願が尊い、正覚が尊いのである。ただ尊い尊いと言うても、信ぜられまい。聴聞はその尊いことを聞かせてもらうのである。

 お慈悲の佛智の、南無阿弥陀佛の「まこと」が届いて下さったのが信心である。
 また如来様の念力 願力 南無阿弥陀佛の「まこと」が届いて下さったのが信心である。
 凡夫の知解(ちげ)や思いと、如来回向の信心とは違う。
 まことの信心は、大悲のよびごえ、佛智のよびごえ、本願力のよびごえ、南無阿弥陀佛のよびごえである。
 南無阿弥陀佛を何と思うてござるやら。如来様の功徳の全体である。その功徳力用によってのみ、衆生は往生するのである。

 如来様のよびごえをどう聞いたらよろしいか。
 答えて曰く、どうもこうもあるもんかい。臨終に火の車が見ておるではないか。「ああ、うれし」より他に何もない。
 佛法を、お寺の本堂で聞くのだと思うておるからいかん。地獄の中で阿弥陀如来に一目お目にかかったら、「ああ、うれし」の他はあるまい。
 地獄の中の如来様が佛法じゃ、地獄で佛法に遇うた心地より他に佛法もなく、信心もない。
 聴聞は何を聞くか。自分の罪の深いことと、如来様の尊いことを聞いて、なるほどと心の底からいただかれたら、それが信心である。この他に信心なし。


稲垣瑞劔師「法雷」第43号(1980年7月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

どうもこうもあるもんかい。臨終に火の車が見ておるではないか。「ああ、うれし」より他に何もない。

とありましたので、火車を調べてみました。

火車は、猛火に包まれた車、の意で、地獄の使者である獄卒羅刹が罪人をこれに乗せて地獄に送り、はたまた地獄において罪人を苛責するために使う、とされる車である。
沙加戸弘(大谷大学教授)
を引用させていただきました。

光瑞寺 さんのコメント...

「火の車 作る大工は なけれども おのが作りて おのが乗りゆく」
昔から詠われていますね。

地獄へゆく心配はありませんが、佛法を傷つけないために、慎んで慎んで生活させていただかなければなりません。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...