稲垣瑞劔師(明治18年~昭和56年)のお言葉を通して阿弥陀さまのお慈悲を味わってまいります
佛法を聞くのには、「不惜身命」と言われてあるが、この世の苦労と心配事が常に佛法に精進する心を鈍らすものである。然しながら、その人間苦の中から、大悲のみ親の「我れ能く汝を護らん」という力強い声を聞くことは、慶びの中の慶びである。
常に「盛者必衰、会者定離」と覚悟を決めておることが大切である。とかくこの世は苦が多過ぎる。また余りに強烈である。一生の勤苦は須臾の間である。
南無阿弥陀佛 九十三歳
稲垣瑞劔師「法雷」第17号(1978年5月発行)
「須臾の間」あまり使うことがない言葉で、調べてみました。短い時間。ほんのわずかな間。しばらくの間。ほんの少しの間。などなど。やはり、仏語でありました。なかには、一昼夜を三十須臾とするという説明があり、計算すると1須臾は48分になります。
「行巻」に「初地をなぜ歓喜地というのか」という『十住毘婆舎論』の文を引いて、「たとえば、一筋の毛を百に分け、その一分の毛を大海に浸して水を分け取るようなものである。すでに消滅した苦はその二三滴のようであって、なお消滅せずに残っている苦は大海の水ほどである。わずかに三滴ほどの苦を消滅したに過ぎないけれども、ふたたび迷うことのない位に就くのであるから、心は大きな歓喜に満たされる。」とあります。とかくこの世は苦が多いとは万人の認めるところでしょう。「けれどもそれも僅かばかりのものである。」と言えるのは、これは、信者のこうむる現生の利益でありましょう。
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今死ぬとなれば、何一つ役に立つものはない。 役に立つものを一つも持ち合わさないでお助けくださるから、ありがたい。 「ありがたい」とは、如来の不可思議力を不思議と仰いだところに、おのずから湧きおこる歓喜である。 念佛者は、信心歓喜の生活である。 稲垣瑞劔師「法雷」第91号(198...
2 件のコメント:
「須臾の間」あまり使うことがない言葉で、調べてみました。
短い時間。ほんのわずかな間。しばらくの間。ほんの少しの間。などなど。
やはり、仏語でありました。
なかには、一昼夜を三十須臾とするという説明があり、計算すると1須臾は48分になります。
「行巻」に「初地をなぜ歓喜地というのか」という『十住毘婆舎論』の文を引いて、
「たとえば、一筋の毛を百に分け、その一分の毛を大海に浸して水を分け取るようなものである。すでに消滅した苦はその二三滴のようであって、なお消滅せずに残っている苦は大海の水ほどである。わずかに三滴ほどの苦を消滅したに過ぎないけれども、ふたたび迷うことのない位に就くのであるから、心は大きな歓喜に満たされる。」
とあります。
とかくこの世は苦が多いとは万人の認めるところでしょう。
「けれどもそれも僅かばかりのものである。」と言えるのは、これは、信者のこうむる現生の利益でありましょう。
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