2020年10月31日土曜日

娑婆永劫の苦をすてて

 佛法を聞くのには、「不惜身命」と言われてあるが、この世の苦労と心配事が常に佛法に精進する心を鈍らすものである。然しながら、その人間苦の中から、大悲のみ親の「我れ能く汝を護らん」という力強い声を聞くことは、慶びの中の慶びである。

 常に「盛者必衰、会者定離」と覚悟を決めておることが大切である。とかくこの世は苦が多過ぎる。また余りに強烈である。一生の勤苦は須臾の間である。

南無阿弥陀佛 九十三歳

稲垣瑞劔師「法雷」第17号(1978年5月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「須臾の間」あまり使うことがない言葉で、調べてみました。
短い時間。ほんのわずかな間。しばらくの間。ほんの少しの間。などなど。
やはり、仏語でありました。

なかには、一昼夜を三十須臾とするという説明があり、計算すると1須臾は48分になります。

光瑞寺 さんのコメント...

「行巻」に「初地をなぜ歓喜地というのか」という『十住毘婆舎論』の文を引いて、

「たとえば、一筋の毛を百に分け、その一分の毛を大海に浸して水を分け取るようなものである。すでに消滅した苦はその二三滴のようであって、なお消滅せずに残っている苦は大海の水ほどである。わずかに三滴ほどの苦を消滅したに過ぎないけれども、ふたたび迷うことのない位に就くのであるから、心は大きな歓喜に満たされる。」

とあります。

とかくこの世は苦が多いとは万人の認めるところでしょう。
「けれどもそれも僅かばかりのものである。」と言えるのは、これは、信者のこうむる現生の利益でありましょう。

和讃と歎異抄の味わい⑺

 禅では「不立文字」ということを言うが、えらい禅師は、決してお経を嫌わぬ。白隠禅師は『法華経』を読んで悟りを開かれたということである。今日でも禅者は、『法華経』や『金剛経』や『楞厳経』、『般若心経』や『観音経』『楞伽経』などを特に尊ぶのである。またたくさんの禅書も語録も公案もある...