光瑞寺(浄土真宗本願寺派)
稲垣瑞劔師(明治18年~昭和56年)のお言葉を通して阿弥陀さまのお慈悲を味わってまいります
2019年7月23日火曜日
罪悪深重の臨終の大病人
浄土真宗は罪悪深重の臨終の大病人に聞かす真実の教えである。年若くぴんぴんしておる人でも、自分は臨終の大病人になったつもりで聞かぬことには、阿弥陀如来のご親切は届かぬ。死と業道を抜きにして信心だけを欲しがっておるから駄目だ。
智者であり、善人である人は、八万四千の法門があるから、華厳でも天台でも真言でも禅でも、すきな門を叩くがよい。十方群生海は極悪最下の一機であると知られたら、自分が猫であることに気付いて、小判を欲しがらぬがよい。極悪最下の機には極善最上の法がある。それが南無阿弥陀佛である。
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No.157
娑婆永劫の苦をすてて
佛法を聞くのには、「不惜身命」と言われてあるが、この世の苦労と心配事が常に佛法に精進する心を鈍らすものである。然しながら、その人間苦の中から、大悲のみ親の「我れ能く汝を護らん」という力強い声を聞くことは、慶びの中の慶びである。 常に「盛者必衰、会者定離」と覚悟を決めておること...
生死は佛の御いのち㈦
さらに道元禅師は「生死」の巻に曰く、 「これをいといすてんとすれば、すなわち佛の御いのちをうしなわんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも佛の御いのちをうしなうなり。佛のありさまをとどむるなり。いとうことなく、したうことなき、このとき、はじめて佛のこころに入る...
鳥部山 煙の末が 恐ろしや
露の命であるから、自分の生死の問題は急を要する。地獄の猛火がひざの下から、えんえんと燃え上がっておる。その中で佛法を聞く。 その瞬間に佛法の真味を体得せねばならぬ。それは、如来の大慈悲本願力を、しみじみ感ずることである。 稲垣瑞劔師「法雷」第90号(1984年6月発行)
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