光瑞寺(浄土真宗本願寺派)
稲垣瑞劔師(明治18年~昭和56年)のお言葉を通して阿弥陀さまのお慈悲を味わってまいります
2019年7月23日火曜日
罪悪深重の臨終の大病人
浄土真宗は罪悪深重の臨終の大病人に聞かす真実の教えである。年若くぴんぴんしておる人でも、自分は臨終の大病人になったつもりで聞かぬことには、阿弥陀如来のご親切は届かぬ。死と業道を抜きにして信心だけを欲しがっておるから駄目だ。
智者であり、善人である人は、八万四千の法門があるから、華厳でも天台でも真言でも禅でも、すきな門を叩くがよい。十方群生海は極悪最下の一機であると知られたら、自分が猫であることに気付いて、小判を欲しがらぬがよい。極悪最下の機には極善最上の法がある。それが南無阿弥陀佛である。
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No.163
法が機になる一すじの道
「いくら聞いてもこちらは、ありがたいこともなく、なんともない。ありがとうなられなくとも、それでよろしいか」 なられたらよし、なられなければそれでもよし。お念佛も出ればよし、出なければそれでよし。今、汝は死の床にあるのでないか、死の床に就いている大病人に、注文はせぬぞ。 苦惱...
一字一光
親鸞聖人のえらいところは、高僧の説を正しく信じ、正しくお説き下されたところが聖人のえらいところである。 親鸞聖人の『教行信証』は、一字一句 如来さまのお慈悲の光明である。 それを末世の衆生に知らせてやりたいと思し召して、一生涯食うものを食わず、着るものを着ずして、千辛万苦の...
功徳
佛法のことにお金を上げると、お寺の功徳には余りならぬが、自分の功徳になる。死んだ人の功徳には少しなる。けれども功徳になると思うたら功徳にならぬ。まあ何でも、上げてくれと仰ったら上げたらよいでないか。功徳・無功徳は忘れてあげるのが上上。 何でも佛法の上では、その時その時の心によ...
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