世の中の師匠は、芸能にしても学問にしても、やればやるほど上達するように導いてくれる。ところが佛法の師匠は、生死の問題について疑問を解決してくれる人でなければ師匠とは云わぬ。物識り学者を養成するのが師匠ではない。如来様の誓願のまことをまことと信ずるように導いて下さる師匠が本当の師匠である。
『臨済録』という禅宗の書物の中に師匠と弟子の組み合わせが四通り示されてある。
①師匠は立派であるが弟子がぼんくら
②弟子は立派であるが師匠がぼんくら
③師匠もぼんくら、弟子もぼんくら
④師匠も立派、弟子も立派
この四つの組み合わせの中で、佛道が出来るのは第四の組み合わせだけであるということが書かれてある。
真宗でもその通りである。信ある師匠に、後生大事と真剣になっておる弟子が就いたらその弟子は必ず本願一実の大道に出られる。そうしてみると
「善知識にあふことも 教ふることもまたかたし
よく聞くこともかたければ 信ずることもなほかたし」
と和讃にある通りである。
禅宗でも真宗でも同じことであるが、ここに真剣に道を求める人が現れた場合には、師匠たる人は、自分の体験した最高最深のところを引っ提げて弟子(その人)の前に、わかってもわからなくとも、真剣になってそれをさらけ出すべきである。そうしないと弟子はものにならぬ。
佛法はいつでも真剣勝負である。階段も階級も、階梯も、何もあったものではない。無常迅速、生死のこと大なるが故である。単に知識を授けるのであれば、それは世間並みの師匠である。佛法の上は、人格が接触し合い、触れあわなくては真味は伝えられるものではない。
稲垣瑞劔師 「法雷」創刊号(1977年1月発行)
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