2019年7月18日木曜日

南無阿弥陀佛のよびごえ

 よびごえは南無阿弥陀佛である。また本願である。本願名号は「本願招喚の勅命」といってよびごえである。本願と云っても、南無阿弥陀佛と云っても、よびごえと云っても、親さまのまことである。真実心である。

 「南無阿弥陀佛 心配するな 待っておるぞよ」
と聞かされても、聞くことがよろこべぬか。
「どうぞおれに助けさせておくれ」
と、親さまの真実に遇わせていただいても、なおその上に何か不足があるのか。
 曇鸞大師も親鸞聖人も、口を揃えて「聞く所を慶ぶ」と仰せられたでないか。聞いてよろこぶ以外にどこに信心があるのか。何を探し、何を求め、何処に汝の信心を見つけ造り出そうとしておるのであるか。

 お前は信心というしっかりしたものを掴まぬと承知が出来ぬのであろう。
 南無阿弥陀佛のよびごえ位しっかりしたものがどこにあるか。
 南無阿弥陀佛のよびごえ一つで気に入らなければ、誓願のよびごえではどうか。誓願なるが故に、如来の御誓いである。御誓いのまことである。
 うそも駆け引きもない真実親さまの真実のよびごえである。この奥は何もない。

 これ以上奥深いことが聞きたければ日本国中回って何千人のお坊さんに片端から聞いてみるがよい。
 それも出来なければ、腹を決めて地獄へ後戻りするがよい。

            稲垣瑞劔師 「法雷」創刊号(1977年1月発行)

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よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...