2024年2月15日木曜日

死の解決㈢

 「大言俚耳(りじ)に入らず(通俗に人に理解されがたい)」と。
 佛教は印度に生まれたが、キリスト教のごとく、モハメット教のごとく全世界に拡がっておらぬ。印度国民は今なおお釈迦様を尊ぶこと日本人以上であるが、佛教信者は僅かにセイロン島に見られるだけである。それも大乗佛教でなくて、小乗佛教のみである。歴史の変遷は人智を超え、想像を超えたものがある。
 善いものが繁昌するというの一面の真理であるが、また善いから繁昌しないというのも一面の真理である。蘭は少なく雑草は多く、紫檀黒檀は少なく雑木は多く、ダイヤは少なく土砂は多い。佛教はダイヤのごとく、紫檀のごとく、また蘭のごときものか。

 真理は善いもの、道徳は善いものであるが、濁れる社会には受け入れられない。科学文明は進んであるが、精神文化は衰え切った社会には、佛教のような尊い教え、清浄な教え、真理の教え、真実に人間を救う教えは、堕落した世には適合しないのが自然である。
 さればこそ、古の名僧知識は、心血をそそいで佛法の興隆に力を入れられたのである。「法は重く、身は軽し」とは彼らのモットーであった。道元禅師は申された、

 「佛法は佛法の為に学ぶべし」

と。『大経』に言く、

 「此の法、止住すること百歳ならん」

と。「佛法のような尊いものが、凡夫風情の耳に入ってたまるものか」とは、瑞劔の常語である。
 とは言うものの、また一面から考えるに、真理は永遠である、朽ち亡ぶことはない。ゲーテは『ファウスト』の中で言った、

 「輝けるものは一時の栄え、真なるものこそ永遠に残れ」

と。親鸞聖人は「化身土巻」に曰く、

 「聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道今盛んなり」

と。
 「死の解決」は個人の問題である。個人とは、これを主観的に見た場合、「我愛」と「我執」、「我見」と「我慢」である。個人が個人を救うことはできない。我執を退治するに我執を以てしては退治することができぬ。闇を晴らすに闇を以てして晴れない。闇を破するものは必ず光明でなくてはならぬ。
 「死の解決」は、個人の闇(悪業煩悩)の解決である。これが解決は必ず如来の無碍の光明、すなわち本願名号の力でなくてはならぬ。信心を得たならば往生すると聞き、信心を得ようといかに個人が考えても、思うても、悪業煩悩の解決にはならぬ。分かり切ったことであるが、事実はこの一点を理解しておる同行が同行が少ない。
 自己の悪業煩悩の解決は、必ず他力に依らなくてはならぬ。他力とは、如来の本願力である。聖人のたまわく、

 「願力を聞くによりて報土の真因決定す」

と。本願は名号であり、名号は本願である。光明は名号であり、名号は光明である。
 無碍の光明、これ一つが、私の無明煩悩の闇を破したもうのである。無碍の光明のうちに難思の弘誓があり、難思の弘誓のうちに、無碍の光明がある。名願力が私の胸に徹到するほかに、信心もなく、往生もなく、「死の解決」はない。 

稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「願力を聞くによりて報土の真因決定す」
とあります。

これは、『教行信証』「行巻」にあるお言葉であり、信心正因をあらわしています。
願力を聞くというのは、信心をいただいたすがたですから、信心によりて浄土に生まれる真因が決まると教えていただいています。

光瑞寺 さんのコメント...

佛教は流行らないもの、それでもその真価に気付いた方々が、誰かにその慶びを伝え、聞いたお方が救われ、と連綿と受け継がれて、ついにこの身に届けられたのだと思うと、感慨深いものです。そんなふうにも願力無窮を味わうことです。

死の解決㈢

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