2020年8月30日日曜日

本願成就文(三)

 「南無阿弥陀佛」と聞いて、何十年の聴聞を捨て、知解分別を捨てて、生まれ初めて、名号を聞く思いをするがよい。聞き始めが、聞き納め。往生極楽の道は是れ一つ。
 「極楽の 道は一すじ 南無阿弥陀」

 「これはこれは」と、驚き入り、歓喜胸に満ち、己れ忘れて、南無阿弥陀佛の威神功徳に丸められるのを、「名号を聞く」というのである。天に躍るような喜びではない。口では言えないが、静かな大きなよろこびである。

 「よろこび」に助けられるのでない。「安心」に救われるのでない。自分の思いで参れる浄土ではない。威神功徳不可思議の「南無阿弥陀佛」という「尽十方無碍光如来」に助けられるのである。
 「信心歓喜」は、長らく戦地に在った兵士が、舞鶴の軍港に上陸して、母親と対面した時のように心配が除れたのを、「聞其名号」という。それを「名号を聞く」というのである。
 親は如来様、如来様は名号。聞くなり、ただ聞くなり、久遠劫来の疑雲が、一時に消散してしまう。それが「信心歓喜」である。その信の一念に、早や凡夫が、そのまま正定聚の数に入るのである。それが「即得往生」である。

稲垣瑞劔師「法雷」第15号(1978年3月発行)

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よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...