「極楽の 道は一すじ 南無阿弥陀」
「これはこれは」と、驚き入り、歓喜胸に満ち、己れ忘れて、南無阿弥陀佛の威神功徳に丸められるのを、「名号を聞く」というのである。天に躍るような喜びではない。口では言えないが、静かな大きなよろこびである。
「よろこび」に助けられるのでない。「安心」に救われるのでない。自分の思いで参れる浄土ではない。威神功徳不可思議の「南無阿弥陀佛」という「尽十方無碍光如来」に助けられるのである。
「信心歓喜」は、長らく戦地に在った兵士が、舞鶴の軍港に上陸して、母親と対面した時のように心配が除れたのを、「聞其名号」という。それを「名号を聞く」というのである。
親は如来様、如来様は名号。聞くなり、ただ聞くなり、久遠劫来の疑雲が、一時に消散してしまう。それが「信心歓喜」である。その信の一念に、早や凡夫が、そのまま正定聚の数に入るのである。それが「即得往生」である。
稲垣瑞劔師「法雷」第15号(1978年3月発行)
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