2020年8月31日月曜日

本願成就文(四)

 「名号を聞く」とは、理智分別で聞くのではない。本願力によって、本願力の名号が、身にも心にも沁み込むのである。それを「聞」という。「聞く」というのである。「聞」は佛力であり、佛智であり、佛心である。如来大悲の誓願力である。

 佛心は、自分が聞こうと思って聞かれるものではない。信じようと思って信ぜられるものではない。和讃に曰く
 「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
  佛の御名を聞くひとは ながく不退にかなふなり」
と。
 不惜身命で聞くと、聞こえて下さる。佛心が徹れば、聞いたということもなく、信じたということもなく、己れ忘れて名号を讃嘆する。それを「名号を聞く」というのである。
 良い師匠に就き一生懸命にお聖教を拝読すると、名号が聞こえて下さる。それを「聞其名号」という。
 親鸞聖人が佛智の奥蔵を開いて、本願成就文を釈して下さっておる、あの「信巻」を、歓喜の涙を以ていただくと、「名号」が聞こえて下さる。それを「信心」といい、また「念佛」という。
 「称えて参ろう」「信じて参ろう」といったようなものではない。凡夫自力の「はからい」を遙かに超えておる。

 「名号不思議の海水は 逆謗の屍骸もとどまらず
  衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり」

 「弥陀の名を 聞きうることの あるならば
   南無阿弥陀佛と  たのめみなひと」

稲垣瑞劔師「法雷」第15号(1978年3月発行)

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よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...