2020年8月29日土曜日

本願成就文(二)

 安心に関して、どういう問題が起ころうとも、如何なる疑問が生じようと、この「成就文」に帰って之を論じ、「成就文」を手本として、その疑問を解決すべきである。

 「成就文か」「それは私も知っておる」ではいかん。自分の死が眼前に迫ってきた。さあ、どうするか。知解分別では、死の関所は通れんぞ。
 「信心ほしい」「安心したい」では、臨終の間に合わん。平生のうちに、全生命を捧げて、威神功徳不可思議の名号、南無阿弥陀佛に、身も心も丸められておらぬと、「いざ」という時の間に合わぬ。

稲垣瑞劔師「法雷」第15号(1978年3月発行)

0 件のコメント:

死の解決㈢

 世の人は「救い」「救い」と言っておるが、「救い」とは何であるか、殆どすべての人が「救い」を知らない。死を宣告された人から見ると、五欲街道の修理は「救い」でない。  真の救いは、救う人と同じ境地に到達してこそ「救われた」と言えるのである。あるいは、救う人の境地に必ず行けるという大...