光瑞寺(浄土真宗本願寺派)
稲垣瑞劔師(明治18年~昭和56年)のお言葉を通して阿弥陀さまのお慈悲を味わってまいります
2020年8月29日土曜日
本願成就文(二)
安心に関して、どういう問題が起ころうとも、如何なる疑問が生じようと、この「成就文」に帰って之を論じ、「成就文」を手本として、その疑問を解決すべきである。
「成就文か」「それは私も知っておる」ではいかん。自分の死が眼前に迫ってきた。さあ、どうするか。知解分別では、死の関所は通れんぞ。
「信心ほしい」「安心したい」では、臨終の間に合わん。平生のうちに、全生命を捧げて、威神功徳不可思議の名号、南無阿弥陀佛に、身も心も丸められておらぬと、「いざ」という時の間に合わぬ。
稲垣瑞劔師「法雷」第15号(1978年3月発行)
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No.156
娑婆永劫の苦をすてて
佛法を聞くのには、「不惜身命」と言われてあるが、この世の苦労と心配事が常に佛法に精進する心を鈍らすものである。然しながら、その人間苦の中から、大悲のみ親の「我れ能く汝を護らん」という力強い声を聞くことは、慶びの中の慶びである。 常に「盛者必衰、会者定離」と覚悟を決めておること...
生死は佛の御いのち㈦
さらに道元禅師は「生死」の巻に曰く、 「これをいといすてんとすれば、すなわち佛の御いのちをうしなわんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも佛の御いのちをうしなうなり。佛のありさまをとどむるなり。いとうことなく、したうことなき、このとき、はじめて佛のこころに入る...
鳥部山 煙の末が 恐ろしや
露の命であるから、自分の生死の問題は急を要する。地獄の猛火がひざの下から、えんえんと燃え上がっておる。その中で佛法を聞く。 その瞬間に佛法の真味を体得せねばならぬ。それは、如来の大慈悲本願力を、しみじみ感ずることである。 稲垣瑞劔師「法雷」第90号(1984年6月発行)
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