浄土真宗は、佛を分からせて佛にしようとする教えである。佛は分からぬものじゃ、そやよってに佛を手近に見せてくださってある。南無阿弥陀佛が、それが佛である。
このお六字があらわれてくださるまでには、天地一切の真理と、諸佛のありたけの智慧とがこもっておる。
お六字が佛様であることが分かれば、何の不足があるか。ただおお六字に腹がふくれて、頭が下がってから、命のある限りぼつぼつと、分に応じて、一切経を拝見して、ますます佛様は智慧と慈悲とのかたまりであることが分かって、ますます呆れ果てるのみである。
八万の法蔵を読む人も一文不知の尼入道、一切群生海は皆一文不知の尼入道で往生するのである。賢ぶる人は落ちますよ。
この最三は、ようまあ都合の良いように親が生んでくれたものじゃ。もともと賢う生んでくれたのであったら阿呆の真似をすることは難しいのであるのに、元来阿呆に生んでくれたればこそ、阿呆が阿呆で極楽参りをする。
世間のお方は皆賢いお方ばかりである。そやによって阿呆になれ、愚痴にかえれ、大愚痴底の人となれと言っても、皆難しそうにしておられる。
そこへゆくと私はとくなものじゃ。人が難難と言い、銀城鉄壁と言うておる関所を、阿呆の二文字をもって難なく透ることができる。佛智の広大無辺を仰いだとき、阿呆も阿呆、底抜けの阿呆でなくて何であろう。
月を仰がぬ人は真っ暗がり、月かげを仰げば自分の胸の闇まで晴れる。晴れた姿はこの阿呆じゃ。何と阿呆もよいものでないか。
佛法の世界に入るには、賢者や智者は門前払いを食うかも知れぬが、阿呆は門前払いを食いながら、すらすらと通ってゆく。人生もまた、苦は苦ながらに楽がある。この楽しみは佛法楽法楽というものじゃ。
稲垣瑞劔師「法雷」第65号(1982年5月発行)
2 件のコメント:
南無阿弥陀佛が、それが佛である。
とありますが、
浄土真宗のご法話で、何度かお聞きする事に、
「阿弥陀仏が南無阿弥陀佛と名のられ声となって私に届いて下さる」
「阿弥陀仏が南無阿弥陀佛という佛になって私に届いて下さる」
というのがあります。
佛様のお慈悲であれば、身に触れても声を聞いてもお慈悲です。佛とお慈悲は切り離せず、名号と佛智も一つであります。
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