2022年11月10日木曜日

どうしても参られぬ 本願あるから参られる

 「どうしても参られぬ」というのは、お浄土は「第一義諦妙境界相」といって、三種荘厳(国土・佛・聖衆)の美わしい「一乗清浄無量寿世界」であり、そのまま「第一義諦」(非有非空)であり、実相であり、また大慈悲心と佛智で出来上がっておる妙土であるからである。
 また国土というから、この娑婆のような穢いものが一杯ある所かと思ったら、浄土は国土全体が佛法であり、三宝であり、また実に阿弥陀如来の全身であり、南無阿弥陀佛である。
 極楽荘厳が、ぞろっとこの娑婆にその影を映し、展開したのが浄土真宗という大法門である。すなわち「教・行・信・証」である。

 今日の凡夫は「信心取ってお浄土へ参る」と言うておるが、その実、如来様の御身が、われらのためにこの世界にご出張下され、浄土が現土に出張して下さっておるのである。勿体ないことである、忝いことである。
 どこにご出張下さっているのか、少しも見えぬでないかというであろうが、「教・行・信・証」が、あれがお浄土の荘厳の御出張である。
 こんな尊いことは、なかなか聞くことはできぬ。瑞劔も、三十八歳の時から桂利劔先生に二十年間師事してこのことを教えていただいた。それまでに三経七祖、御本典は独学で一通り目を通しておったが、独学の二十年は、先生に就いての十五分間の値打ちもない。

 お浄土の荘厳がこの世界へ御出張下され、私の心に響き、心に徹し、心に映って下さることを「回向」という。お浄土の荘厳はすなわち是れ南無阿弥陀佛なるが故に、つまり南無阿弥陀佛様が、私の心に入り満ちて下さることを「南無阿弥陀佛の回向」という。和讃に聖人のたまわく、
 「南無阿弥陀佛の回向の 恩徳広大不思議にて
  往相回向の利益には  還相回向に回入せり」
と。この南無阿弥陀佛の独りばたらきを「南無阿弥陀佛の独立」という。
 南無阿弥陀佛の独立が有り難く味わわれなければ、凡夫の全ての心のはたらきは自力である。たとい喜んだとて安心したとて、それらは自力の喜び、自力の安心である。

稲垣瑞劔師「法雷」第66号(1982年6月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

南無阿弥陀佛の独りばたらきを「南無阿弥陀佛の独立」という。
とありますが、

「独立」という言葉の意味を「他と全く関わりなく別に単独で存立している」
という風に受け止めていました。
それに対して「独立」は「独りばたらき」という風に受け止めなさいと教えて
いただいたように思いました。

光瑞寺 さんのコメント...

私も「独立」という言葉を〈単独〉と受け止めて遠くに見ていましたが、なるほど〈独りばたらき〉でありますね。有り難うございます。

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