- 「善と知りつつ行われず、悪と知りつつ止まらず」というのが、凡夫の実態である。あさまし、あさまし。
仰いでは讃嘆、俯(ふ)しては慚愧(ざんぎ)。まことにお愧(はず)かしい事である。
「本願を信ずるものは因果に昏(くら)く、因果を信ずるものは本願に昏し」
の誡めもある。慎み慎み暮らすべきである。
- 凡夫は「我」が強いものだ。生活のための「我」は致し方がない。娑婆に居る間は、それは除(と)れぬ。けれども、お浄土参りとなれば「我」を出したら参られぬ。「佛法は無我にて候」と蓮如上人も仰せられた。
- 佛法の上の「無我」とは、お慈悲があまりに大きく、本願力があまりに強く、佛智が甚深微妙なるが故に、「凡夫の思いはあかなんだ」となって、ひとえに南無阿弥陀佛のよび声に己れ忘れて信順するのを、それを「無我の信」という。
「どえらい事じゃ どえらい事じゃ、南無阿弥陀佛の千両役者」
このこころを「無我」という。
- 聖徳太子が仰せられた。「世間虚仮 唯佛是真」と。この娑婆は狐と狸の騙し合いである。佛法は生死を離れて佛に成る大道である。
佛法といえば、如来の本願大悲の南無阿弥陀佛である。これのみが真で、凡夫の思うこと為すことは皆、虚仮不実である。
- 善悪に囚われておるのが娑婆である。凡夫の善悪ではお浄土へ参られぬ。
歎異抄(口伝鈔)に曰く「善もほしからず、悪もおそれなし」と。唯だ「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をば遂ぐるなり」と。
これが本願一乗、絶対不二の教(行)というものである。
- 生死を離れんと欲すれば、しばらく是非・善悪を忘れて、阿弥陀如来の本願名号を見つめるがよい。娑婆のこと、凡夫の知解分別も忘れて、本願他力に身も心も吸い付けられるがよい。
稲垣瑞劔師「法雷」第29号(1979年5月発行)
2 件のコメント:
心配もなし 安心もなし
有り難い言葉ですね。
仰いでは讃嘆、俯しては慚愧。まことにお愧かしい事である。
とありますが、読み方も難しかったので、辞書で調べてみました。
「俯(ふ)し」は、うつむく。うなだれる。という意味でした。
「お愧(はづ)」は、はじる。という意味でした。
「心配もなし 安心もなし」
この歌を読んで「こんなことを言うのはどんな人間か」と山陰あたりから瑞劔先生を訪ねて来た人があった、と聞いたことがあります。眼のつく人は驚くのですね。
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