2021年5月18日火曜日

大道を 歩むすがたを ながむれば 心配もなし 安心もなし

  • 「善と知りつつ行われず、悪と知りつつ止まらず」というのが、凡夫の実態である。あさまし、あさまし。
    仰いでは讃嘆、俯(ふ)しては慚愧(ざんぎ)。まことにお愧(はず)かしい事である。
    「本願を信ずるものは因果に昏(くら)く、因果を信ずるものは本願に昏し」
    の誡めもある。慎み慎み暮らすべきである。

  • 凡夫は「我」が強いものだ。生活のための「我」は致し方がない。娑婆に居る間は、それは除(と)れぬ。けれども、お浄土参りとなれば「我」を出したら参られぬ。「佛法は無我にて候」と蓮如上人も仰せられた。

  • 佛法の上の「無我」とは、お慈悲があまりに大きく、本願力があまりに強く、佛智が甚深微妙なるが故に、「凡夫の思いはあかなんだ」となって、ひとえに南無阿弥陀佛のよび声に己れ忘れて信順するのを、それを「無我の信」という。
    「どえらい事じゃ どえらい事じゃ、南無阿弥陀佛の千両役者」
    このこころを「無我」という。

  • 聖徳太子が仰せられた。「世間虚仮 唯佛是真」と。この娑婆は狐と狸の騙し合いである。佛法は生死を離れて佛に成る大道である。
    佛法といえば、如来の本願大悲の南無阿弥陀佛である。これのみが真で、凡夫の思うこと為すことは皆、虚仮不実である。

  • 善悪に囚われておるのが娑婆である。凡夫の善悪ではお浄土へ参られぬ。
    歎異抄(口伝鈔)に曰く「善もほしからず、悪もおそれなし」と。唯だ「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をば遂ぐるなり」と。
    これが本願一乗、絶対不二の教(行)というものである。

  • 生死を離れんと欲すれば、しばらく是非・善悪を忘れて、阿弥陀如来の本願名号を見つめるがよい。娑婆のこと、凡夫の知解分別も忘れて、本願他力に身も心も吸い付けられるがよい。

稲垣瑞劔師「法雷」第29号(1979年5月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

心配もなし 安心もなし
有り難い言葉ですね。

仰いでは讃嘆、俯しては慚愧。まことにお愧かしい事である。
とありますが、読み方も難しかったので、辞書で調べてみました。
「俯(ふ)し」は、うつむく。うなだれる。という意味でした。
「お愧(はづ)」は、はじる。という意味でした。

光瑞寺 さんのコメント...

「心配もなし 安心もなし」
この歌を読んで「こんなことを言うのはどんな人間か」と山陰あたりから瑞劔先生を訪ねて来た人があった、と聞いたことがあります。眼のつく人は驚くのですね。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...