禍福吉凶の占い、みくじ、まじない、日の良し悪し、姓名判断、生れ月日などで人間の運命が決るものならば、敗戦や人口増加や、貿易の不振や外交・外敵などで国民全体が苦しんでおるのはどうすのか。宗教は解脱であり、宇宙人生の根本的解決であらねばならぬ。
善の解決は悪の解決であり、宇宙の解決は肉体の解決であり、肉体の解決は心の解決であり、幸福の解決は不幸の解決であり、生の解決は死の解決であり、また実に宇宙人生を貫く「法」の体解である。誰か「法」と一如になったおらぬか。自分はその人を通じて「法」を聞きたい。「法」そのままの人の声を聞きたい。
「法」と「人」、「真理」と「慈悲」、それが具体的にあらわれた人のことばは、必ずや光明であろう。光明のことば、温かい光明のことば、智慧の光明、慈悲の光明、温かい光明の真理のみが、今の死を解決して解脱を得させてくれるであろう。
然り、佛陀の光明のみが、生と死、善と悪、煩悩と菩提、生死と涅槃とを包容し、世界と我と、苦と楽と、幸と不幸と、智慧と愚痴と、一切の相反するものを摧破し、相対の世界を超えて、死にぶつかって悩んでおる人を救い得るのである。
迷える人を救うのに、迷える人の言葉が何になるか、迷える人の悩みを救うのに「五欲街道」の修理道具が何の役に立つか。覚れる人、真に目覚めた人、相対の迷いの世界を離れて、世を救うために出られた佛陀のみが、本当に死を解決してくれる。
たくさんの言葉を聞かなくても、一言でもよい、一句でもよい。佛陀のことばは甚深微妙、不可思議の功徳と力がこもってあるのに相違ない。真理と慈悲のことばに違いない。否、佛陀の心も身も、真理であり、法であり、力であり、慈悲であり、智慧であり、光明であり、救いであり、また実に死の淵に沈んでおる人にとって唯一つの大生命であるに違いない。ああ、佛陀世尊に遇いたい。その人に接したい。その人の光明に触れたいものだ。
稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)
2 件のコメント:
「一言でもよい、一句でもよい。」とあります。
法を聞ける耳は無いのです。
「佛陀世尊に遇う」「接する」「触れる」
それらは言語理解ではありませんものね。
「南無阿弥陀佛と言葉になってくださった」
という御法話も、阿弥陀さまを私たちの使っている言語と同等に聞き誤るおそれがあるなあと思うことです。
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