聖人は「願力の信心」を釈して、
「凡そ大信海を按ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女老少を謂はず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず(以上、四不)、行に非ず善に非ず、頓に非ず漸に非ず、定に非ず散に非ず、正観に非ず邪観に非ず、有念に非ず無念に非ず、尋常に非ず臨終に非ず、多念に非ず一念に非ず(以上 十四非)、唯是れ不可思議不可称不可説の信楽なり、乃至 如来誓願の薬(本願力)は能く智愚の毒を滅するなり」
と。願力回向の大信心海は、如来の大智大悲の本願力の自然の風光である。すなわち法性界自爾の顕現である。
大信海の相は多種多様であるが、多種多様のまま一相無相である。一相無相のところすなわち如来の本願力である。故にその結語として
「如来誓願の薬は能く智愚の毒を滅するなり」
と曰う。
智愚の毒とは凡夫自力の無量の心理現象である。
凡ての人間の心理学的精神能力は、本願力のいかなるものであるかを知ることはできぬ。
本願力を、身心を以て学道し、本願力の活動によりて本願力を信知せしめられたとき、初めて本願力を体解することが出来る。その体解は本願力の信知であって、すなわち大信海である。
大信海は本願力に徹して始めて大信海に入ることができる。本願力が大信海であり、大信海が本願力である。
一切の凡夫自力の智愚の毒が払拭されて、始めて本願力の虚空を仰ぐことができる。
「智愚の毒」とは、一切凡夫自力のはからいである。本願力に徹したものは大信海に入り、大信海に入ったものは本願力に徹する。信心と願力とを別見してはならぬ。
信心によりて往生するということは、本願力にて往生するということである。本願力にて往生するということが本当に有り難くいただけたならば、それが大信心である。
稲垣瑞劔師「法雷」第79号(1983年7月発行)
2 件のコメント:
「一切の凡夫自力の智愚の毒が払拭されて、」
とあります。
『正信偈』に「煩悩障眼雖不見」とあり、私たち凡夫は煩悩が払拭されないから、仏にであうことが出来ないと教えていただいています。
凡夫のものは愚はもちろん智も毒になる、とかつてお聞かせいただいて驚いたことです。
いまもしみじみと肯かされます。
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