お聖教を拝読すると、お聖教が何もかも教えて下さる。お聖教の「ことば」は如来様である。如来の全身である。
お聖教の「ことば」は、山河大地山川草木と同様、法身佛の光明である。お聖教の「ことば」はまた、阿弥陀如来の悲智円満の本願力そのものである。また近くは親鸞聖人の法身である。それでこそ我等凡夫がお聖教のことばに接すると、お聖教の文字が教えてくれる。
佛法を説くものは佛法であり、佛法を信ずる心も佛法である、本願力をたのむ信心も本願力である。それでこそ「願力回向の信心」と言われるのである。本願力がはたらいて、私を往生させて下さる外に、私の往生する道はない。
「よびごえ」も本願力なれば、信心も本願力、往生成佛するのも本願力、往相も本願力なれば、還相も本願力である。二十年、三十年聴聞する人でも、いつしか本願力を忘れて、信心を取ろう取ろうに日を暮らしてしまうのが普通である。
信心を 取ろう取ろうの 夢さめて 本願力を 仰ぐうれしさ
浄土真宗の人は、自分が信心を取ろうと自分の方から進んで本願力を探し求め、それを信じたのが信心とばかり考えておるものだから、本願力のはたらきを自分で邪魔をして、信心は得られず、未来の苦患を受けるのである。
そうではなくて、本願力の如来様、如来様の本願力(大智・大悲心)の方から進んで私をつかみ、私を引っとらえて浄土に往生させてくださるのである。自分の方から進んで本願力を信じようとするのは自力である。本願力の方から進んで私を往生させて下さるのが他力である。
大信心は如来の佛智の大悲、大悲の佛智の徹到であり、如来の本願力の「まこと」、「まこと」の本願力の映発したものであるから、不可思議の信楽である。凡夫自力の信心ではない。本願力回向の大信海である。
稲垣瑞劔師「法雷」第79号(1983年7月発行)
2 件のコメント:
「自分の方から進んで本願力を探し求め、それを信じたのが信心とばかり考えておる」
とあります。
西田幾多郎師は、「人間より神に行く途はない」と言われたのですが、私たち凡夫から真理に近づくことも信心を掴むことも出来ないと教えていただいています。
自分では自力の相は見えませんが、佛智の光に照らされ、本願力の廻向に眼が付いてみれば、「ふりすてる」べきものとして見えてくるのでしょう。えらいものです。
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