覚如上人の『執持鈔』に曰く、
「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすじに如来にまかせたてまつるべし」
と。「往生ほどの一大事」とは、露の命を持ち、生死罪濁の身でありながら、下に向かっては生死の苦海を超断し、上に向かっては法性の常楽を証し、大智大悲を身にしめて、無上佛に成る一大事を「往生ほどの一大事」というのである。
自力聖道門において無上佛に成ろうと思えば、八正道・六波羅蜜の行を修し、深き禅定に入りて、無我無心、無念・不可得の境に体達し、我執と我愛と我慢とを遠離して、般若の空智を得、自他不二、染浄不二、内外不二、色心不二、生死即涅槃、煩悩即菩提の悟りを開かねばならぬ。
相対界(迷いの世界)に生まれ出で、死に至るまで未だかつて一念一刹那も相対的認識と相対的思惟を離れることのできない我等のごとき凡夫が、どうして佛智大悲の世界である大涅槃に到達することが出来ようか。我等凡夫は、我執のある限り、貪欲・瞋恚の水火二河は常に逆巻き、善心を汚し、清浄心なく、真実心なく、起悪造罪は暴風駛雨に異ならないではないか。
然るに幸いなるかな、内に真如の内薫を受け、外に聞法することを得て、往生して無上佛に成り、本願力の翼に乗って一切衆生を無上佛にしようとする一大志願を、ようまあ起こさせていただいたことよ。
この大志願は、よくよくの宿縁なくば容易に起こるものではないが、さてかかる大至願を起こしたものの、どうしてこの志願を満足せしむることができるか。考えねばならぬことはこの一点である。
志願は最高最大、無上至善であるが、自己の能力はどうであるか。これが凡夫相対的の認識や、相対的の思惟や、相対的の善なる行為を以てして、無上佛という絶対の大智海に悟入することができるか、できないか。その不可能なることは、火を見るより炳らかである。
理想は高く現実は低い。その理想と現実の間に挟まって、どうにもこうにもすることのできぬ憐れな小動物が人間ではないか。斯く考えてきて、自ずから発せられた教語が、
「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず」
の一句である。
「ひとすじにまかせたてまつるべし」
とは、如来の本願力の大風に、吹かれ吹かれて往生するより他に道はないではないか、という意味である。
如来にまかそうと思ってまかされるものではない。「まかした」と思ったところで、それは凡夫自力の思いであって、何の役にも立たぬ。それで蓮如上人も、
「凡夫の佛に成るこそ不思議なれ」
と仰せられた。
本願力の大風に 吹かれ吹かれて
まかすこころも 自然なり
稲垣瑞劔師「法雷」第79号(1983年7月発行)
2 件のコメント:
「凡夫のはからふべきことにあらず」
とあります。
私たちは、生死について全く無智であります。頭がしびれるほど考えても、よい解決は見つかりません。
智慧(光明)に照らされる身のありがたさにおまかせするばかりです。
瑞劔師の言葉に
「行き詰まれ 行き詰まれ とことん行き詰まれ」云々というのがあります。
先人たちは生死の解決をとことんまで求めてゆかれたのでしょう、気の引き締まる思いです。
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