稲垣瑞劔師(明治18年~昭和56年)のお言葉を通して阿弥陀さまのお慈悲を味わってまいります
教行信証の信巻に、西岸の上に人有りて喚うて言く、「汝一心正念にして直に来れ、我能く汝を護らん、衆て水火之難に堕することを畏れざれ」と。・・・とありました。それならば、『お前は私のいのちである。私はお前のいのちである。』は、どこにお聖教の根拠があるのかと考えています。
二河譬は観経三心の釈ですが、その意は大経、ことに第十八願をあらわさんとするものであります。「貪瞋二河の譬喩をとき 弘願の信心守護せしむ」と。その第十八願では「若不生者 不取正覚」と、衆生往生を賭け物にして弥陀成佛が誓われてあります。十方衆生が一人でも救われなければ佛と名告らぬ。救わねばならぬその一人のために、わたしは阿弥陀佛となった。そのひとりとはお前だ。お前とわたしとは同生同死、同じボートの乗組員であるぞ。あるお同行のお宅で、第十八願の平等因果を讃じて「若不生者 不取正覚は宗教の最高峰である」と書かれた瑞劔師の色紙を拝見したことがあります。もう散逸してしまっており、今でも残念に思います。
「一子地」という『涅槃経』の文。親鸞聖人の浄土和讃にある「平等心をうるときを 一子地となづけたり 一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし」と一昨日前に知識から教えて頂きました。
ほんとうに「一子地」とは忝い親心です。菩薩の平等心を、このように味わい深く表現して下さっている。お経というのはまったくすごいものです。それを私たちになじみやすいようにして下さっている和讃も。
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佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。 佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...
4 件のコメント:
教行信証の信巻に、
西岸の上に人有りて喚うて言く、「汝一心正念にして直に来れ、我能く汝を護らん、
衆て水火之難に堕することを畏れざれ」と。・・・
とありました。
それならば、『お前は私のいのちである。私はお前のいのちである。』は、
どこにお聖教の根拠があるのかと考えています。
二河譬は観経三心の釈ですが、その意は大経、ことに第十八願をあらわさんとするものであります。
「貪瞋二河の譬喩をとき 弘願の信心守護せしむ」と。
その第十八願では「若不生者 不取正覚」と、衆生往生を賭け物にして弥陀成佛が誓われてあります。
十方衆生が一人でも救われなければ佛と名告らぬ。救わねばならぬその一人のために、わたしは阿弥陀佛となった。そのひとりとはお前だ。お前とわたしとは同生同死、同じボートの乗組員であるぞ。
あるお同行のお宅で、第十八願の平等因果を讃じて「若不生者 不取正覚は宗教の最高峰である」と書かれた瑞劔師の色紙を拝見したことがあります。もう散逸してしまっており、今でも残念に思います。
「一子地」という『涅槃経』の文。
親鸞聖人の浄土和讃にある
「平等心をうるときを 一子地となづけたり 一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし」
と一昨日前に知識から教えて頂きました。
ほんとうに「一子地」とは忝い親心です。
菩薩の平等心を、このように味わい深く表現して下さっている。お経というのはまったくすごいものです。それを私たちになじみやすいようにして下さっている和讃も。
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