2023年2月15日水曜日

親なればこそ

 親は子を憶念する。子は親を憶念する。それで親子である。如来様は衆生を憶念して下さっている。衆生は如来様を憶念する。それで親子である。佛法とてこの外にはない。憶念が信心である。念佛である。南無阿弥陀佛である。
 自分はお浄土へ参られるか、参られぬか、他人に聞かなくとも自分で知れる。憶念がなければ、いくら教義道理をこね回していても駄目である。
 心につねに佛を憶念しておれば、自ずから口に称名が浮かぶ。これを「憶念称名いさみありて」という。

 阿弥陀如来親様がただ一人おられたら、それで満足せねばならぬ。南無阿弥陀佛は親様である。
 ㈠「見てござる」
 ㈡「護ってござる」
 ㈢「待ってござる」

 五十年六十年聴聞しても、いざ臨終となれば、残っておるものは「佛様」と「ありがたい」と思うこころだけである。あらわれて下さるものは、お念佛だけである。往生する人は、皆ひとしく「誓願不思議」に助けられるのである。誓願不思議とは、如来招喚の勅命「およびごえ」である。「南無阿弥陀佛」の招待券で、よばれて帰る親の里、何の遠慮もいるものか。

稲垣瑞劔師「法雷」第70号(1982年10月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「見てござる」「護ってござる」「待ってござる」
とありますが、誠にありがたい事です。

仏は、見聞知といって、
「見て御座る」「聞いて御座る」「知って御座る」と散々そのように教えられてきましたが、
「見てござる」「護ってござる」「待ってござる」の方が、ありがたいですね。

光瑞寺 さんのコメント...

今教えていただいているご講義では「届いてくださる」とお聞きすることが多いのですが、「待ってござる」というのも味わい深いです。どれほど距離が離れていても「待っておるぞ!」との一声で如来様に掴まれています。

和讃と歎異抄の味わい⑹

 四、死と組み打ちして  「語中に語無し」じゃ。「ただ念佛して」とあるからといって、本願のいわれも聞き開くこともなく、ただ口に念佛ばかり称えては、その人の往生は果たしてどうであろうか。  ある人はただ念佛して直ぐ如来の大悲心を感得し、めでたく往生する人もあろうが、またある人は念佛...