凡夫は、いくら佛法を聞いても何ともない。昔の自分と少しも変わらぬ。
それがそのままお浄土へ参らせていただくのであるから不思議である。いよいよ「このまま」である。
如来誓願の不思議、名号の不思議が、不思議と分かっての上の「このまま」である。
それが分からぬ前に「このまま」と言うたところで、「このまま」とはからうておるのである。ほんまの「このまま」は南無阿弥陀佛の不思議から生まれ出るのである。
「このまま」の味が分かってみれば、これほど強いものはない。この信心は、つぶれる気遣いはない。信心のつぶれるというのは、知った信心、はからいの信心、自分の思いの信心、おぼえた信心であるから、つぶれるのである。
それらのものに一向に、お構いなく、思わぬ心の底に、入って下された南無阿弥陀佛なれば、つぶすにもつぶされぬ。自分の力で捨てるにも捨てられぬ。身から離そうとしても離すことができぬ。まことに不可思議である。
うれしい思いが湧いてきたら喜び、有り難いと思うときは有り難く思う。忘れていても往生は間違わぬ。うれしい、悲しい、善い、悪い、知っておる、知らぬ、どんな心が起こっても、空に暴風が吹いているようなもので、心の上の雨風のために、身心の心髄に徹って下された如来大悲の念力の月は、びくともせぬ。雨降らば降れ、風吹かば吹けである。
稲垣瑞劔師「法雷」第69号(1982年9月発行)
2 件のコメント:
いくら佛法を聞いても何ともない。昔の自分と少しも変わらぬ。
とありますが、
仏法を聞いて、聞いて、聞いた先に、ちっとはましな人間になって、
どうにかなると思うのですが、そうではない。
変わりようのないのが私であった。
そのように聞いてしまうと、どうしようもない人間を作るのが真宗になってしまう。
「私であった。」というのが余計なものです。
確かに、どこかに「私」を落ち着けようとしますね、自分で。
誰より先に、如来様が私を見抜いた上で、知り抜いた上で、「救いようのないお前を救う」と仰せくださるのだから、こちらが要らん解釈を足さんでもよいようにしてくださっています。
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