後生のことは、高僧方の人格、祖師聖人の人格をよくよく考えてみて、そのお言葉を、そのままいただけば、すぐに解決する。これを忘れて、やれ機の受け方はどうじゃこうじゃと、いくら穿鑿しても、真実の信心に住することはなかろう。
いつ思い出しても佛語を仰いで、忝いと思う、その思いが臨終まで通るものである。臨終まで通る信心が、それがほんまの信心である。「もう自分は入信した」とか「もうあなたは入信された」とかいって、信心が昔に済んだことのように思うている人は、それは信心ではない。信心は生きておる。いつでも生き生きとして、はたらいて下さる。
信心が生きてはたらいて下さるというのは、南無阿弥陀佛様が生きてはたらいていて下さるからである。
南無阿弥陀佛のはたらき(行)を信ずる。南無阿弥陀佛を信ずるというが、南無阿弥陀佛の外に「信ずる心」が別にあるのではない。南無阿弥陀佛が流れて私の信心となる。南無阿弥陀佛のはたらきが私の信心である。
南無阿弥陀佛に何一つ加えるものもなければ、減ずるものもない。この行信に帰命するところ摂取不捨の利益にあずけしめたもうのである。
信ずるものと信ぜられるものと二体あるのでない。一体のうちに行信がある。それでこそ機法一体といわれる。
稲垣瑞劔師「法雷」第73号(1983年1月発行)
1 件のコメント:
一体のうちに行信がある。それでこそ機法一体といわれる。
とありますが、
蓮如上人の『御文章』第1帖第15通には、
南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。
とあります。
コメントを投稿