罪業深重・散乱放逸も重からず、捨てられず、と深く信じさせていただいたのは、全く願力無窮のおかげであり、佛智無辺の賜物である。これを「本願一乗絶対不二の教」といい、「本願力の独立」といい、「佛智即行」ともいう。
絶対不二の教の外に絶対不二の機(金剛の信心)は無い。法そのままの機、機そのままが法である。機中法あり、法中機ありとはここのところを言ったのである。
南無阿弥陀佛が生き生きとしていて、はたらいて下さるすがたは、この私が宿善到来して、
願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
佛智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず
のお言葉を、仰ぐことのできないのに仰がせていただき、安心のならぬのに安心させていただいたこと、そのことが南無阿弥陀佛のはたらきであって、生き生きとしてはたらいて下さるところである。
これが何でもないようなことであるが、なかなかこのように仰がせていただけるものでない。そこで聖人は「たまたま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」と仰せられたのである。
この和讃の一句をくれぐれも、よう味うて下されや。この一首の味わいが、不思議不思議、忝い、有り難い、勿体ないことよと味わえないのであれば、外のことも、知ることは知っても、真から味わえる言葉は一句もあるまい。もとの幼稚園から出なおしだ。
稲垣瑞劔師「法雷」第73号(1983年1月発行)
2 件のコメント:
親鸞聖人は「宿縁」と仰られ、
その後の蓮如上人は「宿善」と仰られていますが、
宿善の意味は間違いやすいので、気をつけて下さい。
端的には、
蓮如上人の『御一代記聞書』には、
「蓮如上人仰せられ候「宿善めでたし」と云ふはわろし、御一流には「宿善有り難し」と申すがよく候ふ」
とあります。
他力の御法義である限り、過去も未来も現在も曾無一善の私なのでしょう。苦から苦へと沈むしかない身を少しずつさとりの方向へと向かうところに「善」が「善」として意味を持ちます。それを施し与え積み上げて下さったのは満足大悲の阿弥陀さまより他にはいますまい。
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