2023年6月25日日曜日

佛智の不思議

 極楽は、阿弥陀如来の大悲心の世界であり、みやこであり、如来のこころ、如来のさとり、如来の身のうちである。
 極楽に参るということは、如来正覚の華より化生して、如来様と同じ一つの身にしていただくことである。
 罪咎(つみとが)をかかえた凡夫がこのままで、この幸せを本願力一つで得させてもらうのである。この不可思議の本願力、この不可思議の佛智、大悲が、どうして凡夫の頭に、なるほどそうですかと、納得が行くか。行きそうなことがない。それが不可思議に如来廻向によりて信じさせていただいたのである。
 浄土教の往生は、凡夫から見れば理屈に合わぬ。それは凡夫の智力が足らないがためである。でも心を静かにして、よくよく聴聞すると、如来の方では、少しも無理がない。
 如来様は不思議な方である。不思議で有り難い親である。凡夫をそのまま助ける本願力の威大さは、とてもとても、凡夫の心や言葉の及ぶところではない。
 釈迦如来の金言、高僧方のお言葉を、そのままにいただき、そのお言葉を何十年もかかって味わっておると、道理の上から不思議不思議ということになる。不思議であるが信ぜられる。これまた不思議である。

 佛教の不思議は、無茶を押し付けるような宗教で言う不思議とは違っておる。真理の上の真理、凡夫の智慧の及ばない奥の奥の真理であるから、凡夫には分からぬけれども、お経に書いてある通り事実としてあらわれる。その事実としてあらわれてくださる奥には本願力の不思議がある、佛智の不思議がある。

 佛智の不思議を信ずるのが往生のたねである。本願力を信ずるのが往生の因である。それが信ぜられないでいて、機の受け方がどうのこうのと言うてみたところで始まらぬ話である。また何月何日に信をいただいた覚えの無いような信心ではだめだといったことも、信心を取りたがる人、信心を取った気持ちに早くなりたがる人、まあその辺の人の言うことは当てにはならぬ。
 要は佛智の不思議が信ぜられ、本願力が信ぜられたらよいのであって、後のごちゃごちゃしたことをごじゃごじゃ言うのは、人を惑わすいたずらもののする仕事である。

稲垣瑞劔師「法雷」第73号(1983年1月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

佛智の不思議を信ずるのが往生のたねである。本願力を信ずるのが往生の因である。
とありますが、

本願名号正定業 至心信楽願為因 と『正信念仏偈』でいつもお聞かせいただいています。
本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。
「信心正因」です。

光瑞寺 さんのコメント...

「正信念佛偈」は宗祖の信仰告白であり、行信の大綱と拝せらることです。日々うわのそらで上げていますが、勿体ないことです。

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