2020年10月23日金曜日

如来親様の大悲

 阿弥陀さまは大悲の親様である。大悲には大智が添うておる。大智大悲のやるせないおこころが声にあらわれたものが「本願名号のよびごえ」である。声には心があり、光があり、智慧があり、力がある。よびごえはどういう声であるかというと、

 「南無阿弥陀佛 落としはせぬぞ、助くるぞ。唯だ助くるぞ、おれにまかしてくれ、おれに助けさせてくれ」

と仰せられる。ここで親様の大悲がわからぬか。如来さまのお不思議が不思議といただけるでないか。

 ただ助けて下さる。

 ただ助けるぞと仰せ下さる。

 ただのお助け。これほどありがたいことはない。これほど忝いことはない。
 この「ただ」が何十年聴聞してもわからぬ。「ただ」のお助けなるが故に、これほど易いことはないのであるが、自力執心の凡夫には、これほどむつかしいことはない。それ故「極難信」とも、「世間難信之法」とも、「真実の浄信億劫にも獲叵し」とも仰せられる。

  ただよんで

  ただ南無阿弥陀佛のよびごえひとつで

  ただ如来の誓願力ひとつで

  ただ如来の無碍の光明ひとつで

  ただ如来の大慈悲力ひとつで

  ただ如来の摂取衆生力ひとつでお助け下さるのである。

  助けて下さるのは如来さま、落ちるのは私。

  落ちる私を親様なればこそよんで必ず助けて下さる。

  弥陀弘誓の船のみぞ、のせてかならず、わたしける。

稲垣瑞劔師「法雷」第16号(1978年4月発行)

4 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「ただ」が沢山出てきたので、妙好人:浅原才市さんの
言葉を思い出し、紹介します。

ただなしの
ただのただもいらぬ
ただのただなり
やれ らくなのう
おもに《重荷》 とられて らくらくのらく
なむあみだぶつ なむあみだぶつ

もし、漢字でただを表すと「唯」、「徒」、「只」、「直」、
の中から、「唯」が適当であると考えます。

光瑞寺 さんのコメント...

この歌は初めてお聞きしました。
また、漢字もいろいろ充てられるのですね。

「ただ」がむつかしいとのお示し、聞き覚えの「ただ」には力み、はからいしかありません。
「ただもいらぬ」
と払ってもらってらくになります。

土見誠輝 さんのコメント...

「ただ」を次の4つの漢字で考えてみました。
(1)ひたすら、「唯」の字が相応
(2)ふつうだ、「徒」の字が相応
(3)無料だ、「只」の字が相応
(4)ただちに、「直」の字が相応

「唯」と強調すると三業安心、
「徒」や「只」と強調すると十劫安心、
なのかも知れません。

「極重悪人唯称仏」(正信偈)から、あえて「ただ」を「唯」であててみました。
言葉は揺れ動くので、とても恐ろしいですが、とても面白いですね。

光瑞寺 さんのコメント...

「言葉は揺れ動く」か、なるほどです。異解異安心には詳しくないのですが、いずれ言葉に固執して誤ってしまうのかもしれません。関連して『日渓学則』の
「文字に就いて義を解するを解義という、文字を離れて解するを円解という」
を思い出しました。

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