阿弥陀さまは大悲の親様である。大悲には大智が添うておる。大智大悲のやるせないおこころが声にあらわれたものが「本願名号のよびごえ」である。声には心があり、光があり、智慧があり、力がある。よびごえはどういう声であるかというと、
「南無阿弥陀佛 落としはせぬぞ、助くるぞ。唯だ助くるぞ、おれにまかしてくれ、おれに助けさせてくれ」
と仰せられる。ここで親様の大悲がわからぬか。如来さまのお不思議が不思議といただけるでないか。
ただ助けて下さる。
ただ助けるぞと仰せ下さる。
ただのお助け。これほどありがたいことはない。これほど忝いことはない。
この「ただ」が何十年聴聞してもわからぬ。「ただ」のお助けなるが故に、これほど易いことはないのであるが、自力執心の凡夫には、これほどむつかしいことはない。それ故「極難信」とも、「世間難信之法」とも、「真実の浄信億劫にも獲叵し」とも仰せられる。
ただよんで
ただ南無阿弥陀佛のよびごえひとつで
ただ如来の誓願力ひとつで
ただ如来の無碍の光明ひとつで
ただ如来の大慈悲力ひとつで
ただ如来の摂取衆生力ひとつでお助け下さるのである。
助けて下さるのは如来さま、落ちるのは私。
落ちる私を親様なればこそよんで必ず助けて下さる。
弥陀弘誓の船のみぞ、のせてかならず、わたしける。
稲垣瑞劔師「法雷」第16号(1978年4月発行)
4 件のコメント:
「ただ」が沢山出てきたので、妙好人:浅原才市さんの
言葉を思い出し、紹介します。
ただなしの
ただのただもいらぬ
ただのただなり
やれ らくなのう
おもに《重荷》 とられて らくらくのらく
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
もし、漢字でただを表すと「唯」、「徒」、「只」、「直」、
の中から、「唯」が適当であると考えます。
この歌は初めてお聞きしました。
また、漢字もいろいろ充てられるのですね。
「ただ」がむつかしいとのお示し、聞き覚えの「ただ」には力み、はからいしかありません。
「ただもいらぬ」
と払ってもらってらくになります。
「ただ」を次の4つの漢字で考えてみました。
(1)ひたすら、「唯」の字が相応
(2)ふつうだ、「徒」の字が相応
(3)無料だ、「只」の字が相応
(4)ただちに、「直」の字が相応
「唯」と強調すると三業安心、
「徒」や「只」と強調すると十劫安心、
なのかも知れません。
「極重悪人唯称仏」(正信偈)から、あえて「ただ」を「唯」であててみました。
言葉は揺れ動くので、とても恐ろしいですが、とても面白いですね。
「言葉は揺れ動く」か、なるほどです。異解異安心には詳しくないのですが、いずれ言葉に固執して誤ってしまうのかもしれません。関連して『日渓学則』の
「文字に就いて義を解するを解義という、文字を離れて解するを円解という」
を思い出しました。
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