2021年3月25日木曜日

統一眼(二)

 真宗で言えば、統一眼を養う根本は二種深信である。
 二種深信というのは、機の深信と法の深信である。機の深信というのは「無有出離之縁の機(自分)である」と深信することである。法の深信というのは、「疑いなく慮りなく、彼の願力に乗じて定んで往生を得」と深信することである。

 平たく言えば、「どうしても助からぬ」と信じ、同時に「どうしても助かる」と信ずる信心を、二種深信という。
 二種深信は、一信心の二面観であるから、前後はない、同時同一である。「機中に法あり、法中に機あり」である。

 二種深信の眼で二河白道をいただき、六字釈をいただき、また和讃や御文章をいただくがよい。教行信証もまた、二種深信の眼でいただくと分かり易い。歎異抄もそうだ。天親菩薩の「一心帰命」も、御文章の「弥陀たのむ」も、二種深信と同一である。

 如来さまが衆生を救いたもう至心・信楽・欲生の三心は、行者のいただく帰命の一心である。親のものは子供のものである。これが統一眼である。

 科学でも哲学でも、世界中の一切の宗教でも、凡夫が生死を離れて、無上涅槃を得る道は、浄土真宗より外にはない。
 智慧でも修行でも、いかなる方法を用いても、思うても考えても、説教を聞いても、「凡夫はどうしても助からぬ」ということが徹底していないものだから、せっかくの無上の妙法が死んでしまう。

 佛教の門を叩いて、最初にして最後の問題は、「出離の縁有ること無し」と善導大師が仰せられ、「とても地獄は一定すみかぞかし」と親鸞聖人が仰せられた。唯だこの一点について徹底したところが機の深信であり、法の深信である。

稲垣瑞劔師「法雷」第25号(1979年1月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「凡夫はどうしても助からぬ」ということが徹底していないものだから、

とありますが、「私はどうしても助からぬ」ということは、凡夫の智慧
では分からないことです。まだまだ大丈夫、まだましな方と思っている
のが私たちですが、底の底に阿弥陀様はましまして、私を抱いて下さっ
ているのです。

光瑞寺 さんのコメント...

「凡夫の智慧では分からないこと」
もったいないことです。凡夫では分からぬ、凡夫では分からぬことを。

「底の底にましまして抱いて下さる」
阿弥陀さまはそういう御方でしたか。おのれの底も存じませんでした。もったいないことです。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...