真宗で言えば、統一眼を養う根本は二種深信である。
二種深信というのは、機の深信と法の深信である。機の深信というのは「無有出離之縁の機(自分)である」と深信することである。法の深信というのは、「疑いなく慮りなく、彼の願力に乗じて定んで往生を得」と深信することである。
平たく言えば、「どうしても助からぬ」と信じ、同時に「どうしても助かる」と信ずる信心を、二種深信という。
二種深信は、一信心の二面観であるから、前後はない、同時同一である。「機中に法あり、法中に機あり」である。
二種深信の眼で二河白道をいただき、六字釈をいただき、また和讃や御文章をいただくがよい。教行信証もまた、二種深信の眼でいただくと分かり易い。歎異抄もそうだ。天親菩薩の「一心帰命」も、御文章の「弥陀たのむ」も、二種深信と同一である。
如来さまが衆生を救いたもう至心・信楽・欲生の三心は、行者のいただく帰命の一心である。親のものは子供のものである。これが統一眼である。
科学でも哲学でも、世界中の一切の宗教でも、凡夫が生死を離れて、無上涅槃を得る道は、浄土真宗より外にはない。
智慧でも修行でも、いかなる方法を用いても、思うても考えても、説教を聞いても、「凡夫はどうしても助からぬ」ということが徹底していないものだから、せっかくの無上の妙法が死んでしまう。
佛教の門を叩いて、最初にして最後の問題は、「出離の縁有ること無し」と善導大師が仰せられ、「とても地獄は一定すみかぞかし」と親鸞聖人が仰せられた。唯だこの一点について徹底したところが機の深信であり、法の深信である。
稲垣瑞劔師「法雷」第25号(1979年1月発行)
2 件のコメント:
「凡夫はどうしても助からぬ」ということが徹底していないものだから、
とありますが、「私はどうしても助からぬ」ということは、凡夫の智慧
では分からないことです。まだまだ大丈夫、まだましな方と思っている
のが私たちですが、底の底に阿弥陀様はましまして、私を抱いて下さっ
ているのです。
「凡夫の智慧では分からないこと」
もったいないことです。凡夫では分からぬ、凡夫では分からぬことを。
「底の底にましまして抱いて下さる」
阿弥陀さまはそういう御方でしたか。おのれの底も存じませんでした。もったいないことです。
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