2021年3月13日土曜日

信心銘 24

 「悪いことをすれば悪い報いが来る」という業道自然のこの厳粛な法則があるのに、それが信ぜられぬという人は佛法を聞く資格のない人である。

 賢い人でも無常は分からぬ。平生は知らぬ顔の頬被りである。本当に無常を知っているのは、死刑の宣告を受けた人か、重病人で死ぬる前に黒血を吐いてそれを見た時くらいであろう。

 親鸞聖人は生死出べき道を真剣に求められた。今日の吾等も生死出べき道を真剣に求めてこそ、信心決定の暁に出ることができるのである。人真似ではあかん。

 本願なるが故に、本願力なるが故に、助からぬ私が助かるのである。このほかに説教も聴聞も、信心も往生もない。

 本願なるが故に、本願力なるが故に。これを思え、これを思え。深く思念して何十年でも苦労して、これをよくよく味わうがよい。味わったらそれが信心というものである。

稲垣瑞劔師「法雷」第24号(1978年12月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

生死出べき道

これを蓮如上人は、一大事の後生と、教えて下さいます。
後生の一大事の解決が仏教の目的です。

光瑞寺 さんのコメント...

今まで、一大事の後生と読んでも聞いても、知らぬ顔をし後込みしていました。
それでも、求めよ求めよと迫って来てくれました。

死の解決㈢

 世の人は「救い」「救い」と言っておるが、「救い」とは何であるか、殆どすべての人が「救い」を知らない。死を宣告された人から見ると、五欲街道の修理は「救い」でない。  真の救いは、救う人と同じ境地に到達してこそ「救われた」と言えるのである。あるいは、救う人の境地に必ず行けるという大...