「悪いことをすれば悪い報いが来る」という業道自然のこの厳粛な法則があるのに、それが信ぜられぬという人は佛法を聞く資格のない人である。
賢い人でも無常は分からぬ。平生は知らぬ顔の頬被りである。本当に無常を知っているのは、死刑の宣告を受けた人か、重病人で死ぬる前に黒血を吐いてそれを見た時くらいであろう。
親鸞聖人は生死出べき道を真剣に求められた。今日の吾等も生死出べき道を真剣に求めてこそ、信心決定の暁に出ることができるのである。人真似ではあかん。
本願なるが故に、本願力なるが故に、助からぬ私が助かるのである。このほかに説教も聴聞も、信心も往生もない。
本願なるが故に、本願力なるが故に。これを思え、これを思え。深く思念して何十年でも苦労して、これをよくよく味わうがよい。味わったらそれが信心というものである。
稲垣瑞劔師「法雷」第24号(1978年12月発行)
2 件のコメント:
生死出べき道
これを蓮如上人は、一大事の後生と、教えて下さいます。
後生の一大事の解決が仏教の目的です。
今まで、一大事の後生と読んでも聞いても、知らぬ顔をし後込みしていました。
それでも、求めよ求めよと迫って来てくれました。
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