2021年3月6日土曜日

教行信証拝読記(17)

   259 如来様の智慧は、大宇宙(法界)の絶対真理(真如法性)と合一したる「大智」である。宇宙万物の根本真理そのままの「真智」である。天地万物を創ったという神の知慧とは、舞台が違う。

  260 「真智」から「権智」が出る。権智に依って一切衆生が苦海に沈淪しておるすがたを御覧になって、「大悲」を発し、「大悲の本願」を建てられた。他の宗教では「神は愛なり」というが、愛と智慧との関係は不明瞭である。

  261 他の宗教には「禅定」が無い。禅定の無い宗教は、説くこと、言うこと、凡夫の相対的分別、相対的知識に止まって、絶対界の風光は、微塵も之を語ることができない。
 釈迦如来は「禅定」の完成者である。禅定の完成者は、三世の諸佛である。吾等の世界における完成者は、釈迦如来御一人である。高僧方は禅定の分証者である。あるいは佛の権化である。

  262   比較宗教学という学問もあり、キリスト教にも新教と旧教の争いがあり、佛教部内でも自力と他力の争いは絶えぬ。
 「教・行・信・証」の「証」の世界に入れば、「真実の証」は真如法性の世界であるから、すべてが平等一味である。これを「第一義諦」といい、また「真諦」という。現象差別の世界は、これを「俗諦」という。
 禅定を少し学ぶと、平等一味の真理の世界があるということが分かる。真宗の人も第一義諦の話を、少し聞いておくがよい。曇鸞大師は阿弥陀如来の浄土を「第一義諦妙境界相」と申された。

 263 山川草木、山河大地といった、人間が見る世界、考える世界は、皆これは相対界である。「この万物を一まとめにしたらそれは何か」という問題、「万物そのものは何か」という問題を出して、その答えというのが第一義諦である。
 禅宗でいうと、「万法 一に帰す、一 いずれの処にか帰す」(碧巌録)と問い掛けて、正しい答えが出たら、それが第一義諦である。
 また『大乗起信論』でいえば、「真如とは一法界の大総相、法門の体、いわゆる心性不生不滅なり」とある。不生不滅なる心性が、第一義諦である。法門(佛性)の体が、第一義諦である。万物の総和が、第一義諦である。真如が、第一義諦である。

 弥陀の浄土は、三種荘厳の浄土のままが、第一義諦の絶対の真理である。ゆえに浄土のことを「第一義諦妙境界相」という。浄土が第一義諦妙境界相なるがゆえに、教行信証は、第一義諦の真理の上に立てられた法門である。
 曇鸞大師は、念佛往生は実相の法を聞信するのであるから下品下生の凡夫も往生するのである、と釈された。この「実相の法」というのが、第一義諦の南無阿弥陀佛のことである。

稲垣瑞劔師「法雷」第23号(1978年11月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

>苦海に沈淪

往相・還相の回向に
まうあはぬ身となりにせば
流転輪廻もきはもなし
苦海の沈淪いかがせん
(正像末和讃)
とありました。

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。
阿弥陀仏の本願力のはたらきとして二種の回向があります。

光瑞寺 さんのコメント...

この者はどう足掻いたところで苦海から浮かび出ることはできぬ、とご覧下さったからこそ、御本願をお建てくだされ、二種の回向を御成就下さったのですね。南無阿弥陀佛

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