自分の心ほど、頑固で手にも足にも負えないものはない。「疑うな」と言えば、ますます疑う。「信ぜよ」と申しつけても、本願力をよう信じない。これほど苦しいことはない。
自分の心に相手になるから信は獲られぬ。信が獲られてない証拠には、自分の心に相手になって、その土俵から引き下がることができない。
自分の心が、自分の心に相手にならぬほど難しいことはない。「自分の心に相手にならぬ」とは、いくら相手になったとて、大丈夫、そのようなことで本願力による往生が少しも妨げられるものでないのであるから、「こら、我が心よ、あばれるならいくらでもあばれてみよ、罪を造るのならばいくらでも造ってみよ」と、自分の心にけしかけるが面白い。さすがの心も、その度胸には勝たれぬと見えて、閉口して、心を常のごとくはたらかせて、人生苦楽の生活を、気楽に生活することができる。
稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)
2 件のコメント:
自分の心に相手になるな
とありますが、
自分の心を見ているのは、
若存若亡(存ぜるがごとく亡ぜるがごとくなる)となります。
自分の心に用事はありません。如来のお心をいただくばかりです。
若存若亡は自分の心を見ているのですね、なるほどそれは不安定きわまりない。
自分の心も、ときおり信心のような顔をすることもある、これは用心用心。
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