2022年12月25日日曜日

業にしばられ業を超える

 地球の上に人間として生まれてきたのが、業の結果であり、同時に人間生活をする業因である。為ようと思って為たことは報いを受けねばならぬ。苦楽の結果が報うてくる。

 人間が業のままに流れていったならば、人間を超えて佛に成ることはできない。
 業のきずなより人間を解放して、佛陀として大自由の境を得せしめ、大悲の活動に入らしめるものは如来の大願業力である。如来の清浄なる業の海に人間の悪業が流れ込んで、同じ一味の浄い水となるのは、本願海の功徳である。

 煩悩邪智の悪水を本願海に流れ込ます力は、凡夫にはない。本願海が、凡夫の悪水を吸い込んで、清浄の水となしたもうのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

如来の清浄なる業の海
とありますが、

初めて接する言葉でありましたので、少し調べてみました。
『華厳経』世間淨眼品に「清淨業海」(清浄なる業の海)とありました。

光瑞寺 さんのコメント...

その表現は初めて目にします。一語一語に裏付けがあるのですね。

『教行信証大系(第二巻)』(桂利劔師著・稲垣瑞劔師編)に

「佛教では、凡夫にも行業があり、諸佛如来にも行業があることを教えます。行業によりて宇宙・人生が無限に生み出されていく(生成流転する)ことを業感縁起と言います。諸佛如来の世界にもまた清浄なる行業による縁起(因縁法)があります。阿弥陀如来の衆生救済の世界がそれであります。」

とあります。こういう世界観も華厳の教説からきているのかもしれませんね。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...