地球の上に人間として生まれてきたのが、業の結果であり、同時に人間生活をする業因である。為ようと思って為たことは報いを受けねばならぬ。苦楽の結果が報うてくる。
人間が業のままに流れていったならば、人間を超えて佛に成ることはできない。
業のきずなより人間を解放して、佛陀として大自由の境を得せしめ、大悲の活動に入らしめるものは如来の大願業力である。如来の清浄なる業の海に人間の悪業が流れ込んで、同じ一味の浄い水となるのは、本願海の功徳である。
煩悩邪智の悪水を本願海に流れ込ます力は、凡夫にはない。本願海が、凡夫の悪水を吸い込んで、清浄の水となしたもうのである。
稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)
2 件のコメント:
如来の清浄なる業の海
とありますが、
初めて接する言葉でありましたので、少し調べてみました。
『華厳経』世間淨眼品に「清淨業海」(清浄なる業の海)とありました。
その表現は初めて目にします。一語一語に裏付けがあるのですね。
『教行信証大系(第二巻)』(桂利劔師著・稲垣瑞劔師編)に
「佛教では、凡夫にも行業があり、諸佛如来にも行業があることを教えます。行業によりて宇宙・人生が無限に生み出されていく(生成流転する)ことを業感縁起と言います。諸佛如来の世界にもまた清浄なる行業による縁起(因縁法)があります。阿弥陀如来の衆生救済の世界がそれであります。」
とあります。こういう世界観も華厳の教説からきているのかもしれませんね。
コメントを投稿