2019年8月27日火曜日

親心

 凡夫は風呂の焚き物にも及ばぬ、値打ちの無いものであるが、如来さまは慈悲の父であり、母である。私を可愛い一人子であると仰せられる。
 ここに信心と往生の秘鍵がある。

 「落とさぬぞよ、必ず助くるぞよ」と仰せられるのは親なるが故である。真心徹到とは親がわかった時である。金剛の信心とは親心がわかったことである。
 親になってみないと親心がわからぬ。そこは親鸞聖人のことばを通して、親と親心を知らせて頂くのである。
 親鸞聖人なく、親鸞聖人のことばなくして、如来と本願力を信知するということはあり得ない。得道の人ここに在り、また何をか疑わんやである。

「法雷」誌 第2号(1977年2月発行)巻頭言

0 件のコメント:

死の解決㈢

 世の人は「救い」「救い」と言っておるが、「救い」とは何であるか、殆どすべての人が「救い」を知らない。死を宣告された人から見ると、五欲街道の修理は「救い」でない。  真の救いは、救う人と同じ境地に到達してこそ「救われた」と言えるのである。あるいは、救う人の境地に必ず行けるという大...