多くの人は、阿弥陀様の丸々のお助け、こちらは丸々のはだか、それが気に入らぬと見えて、どう信じたらよいか、どうして信心をいただくのであるかと思い悩む。
信心を取る力があるならば、そのように思うのも無理からぬことであるが、自分は今臨終の大病人と同様の身でないか。大病人なら丸々はだかでお助けに与らねば仕方あるまい。それ故こちらは丸々のはだかであるというのである。
丸々のはだかものを丸々そのままで助ける佛様がなければ、「助けなおかぬ」の御本願がなければ、また如来正覚の南無阿弥陀佛が私の往生の証拠であると言うて下さらなかったらどうするつもりであるか。丸々のはだかものをそのまま、「丸々救わねばおかぬ」の大慈悲本願のよびごえがかからなかったら、地団駄踏んで泣かねばなるまい。如来本願のよびごえこそ他の宗教にも、他の佛にもない大慈悲の本願である。そこを正信偈に「建立無上殊勝願、超発希有大弘誓」と仰せられたのである。
本願はよびごえ、よびごえは本願である。
またよびごえは南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛はよびごえである。
よびごえの外に如来なく、如来正覚はない。よびごえの中には、生死即涅槃、煩悩即菩提の如来正覚の大智がこもっている。大智から大慈悲があらわれる。
またよびごえのうちには大智大悲の無碍の光明のはたらきが、はたらきづめにはたらいていて下さる。その無碍光のはたらきによって、疑い深い散乱放逸、愚痴(智)無智のこの凡夫にも大悲大智のよびごえが徹るのである。
よびごえがかかっておる、久遠劫来一念一刹那も息むことなく、今も現によびごえがかかっておる。
よびごえが聞こえたか、よびごえが徹ったか。聞こえた、徹ったすがたがよびごえである。この味わいは何とも云われぬ。これ以上は筆舌の及ぶところではない。行巻に曰く、「帰命は本願招喚の勅命なり」と。知るべきである。
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