「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」
この一句の外に佛法なし、私の助かる法なしと思って真剣になると、如来様の大慈悲心が凡夫の心に映って下さる、これがよくよくのお慈悲である。これが分かれば、分かったので助かるに非ず、南無阿弥陀佛! 如来の不可思議の誓願力で助かるのである。
南無阿弥陀佛は如来様である。それは親鸞聖人が八十四歳の時、お書きあそばされた六字名号には下に蓮台が描かれてある。これは南無阿弥陀佛を如来様として礼拝されたことを示しておる。
口に浮かぶお念佛も如来様がお出まし下されたのである。何十年まわり路をして、帰ってくるところは元の南無阿弥陀佛である。
この「誓願不思議」、「極楽の道は一すじ 南無阿弥陀」が分かったら、忘れていても、悪業煩悩が如何に逆巻いても、また、ありがたい思いが起こり、念佛が称えられても、極楽に参れそうになっても、それらのものにて助かるに非ず、「南無阿弥陀佛の佛智の不思議」で助かる、ということが有り難くいただける。
阿弥陀様は不可思議光如来である。南無阿弥陀佛の不可思議の誓願力の前には煩悩は全滅だ。世界は全滅だ。今までの心も、今までの身も、はからいも、疑いも、善も悪も何もかも全滅だ。一旦全滅したものをまた取り出して、とやかく、ごてごて振り回すのでない。
ただありがたい。ただ忝い。如来様がありがたい。親様なればこそ、世界全滅のまま、お浄土へ連れて行ってくださるのである。それでこそ誓願不思議である。
稲垣瑞劔師「法雷」第70号(1982年10月発行)
2 件のコメント:
親鸞聖人が八十四歳の時、お書きあそばされた六字名号には下に蓮台が描かれてある。
とありますが、
いつか現物を拝見したいと思っているところです。
まことに有り難い事であります。
ただ、拝見したときには、落涙するのではなかろうかと心配しています。
南無阿弥陀佛様、生きてござる。
「離しはせぬぞ」とこの身に迫ってくださる。
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