お釈迦様や阿弥陀如来という佛は、龍樹・天親のごとき大菩薩、七高僧方のごとき大師たちと比べても、それを百万倍も大きくしたほどの御方であって、想像も及ばぬ偉い御方である。悲智円満の大覚者であらせられる。
その悲智の大海をそのままあらわしたものが本願力であり、南無阿弥陀佛である。その摂取衆生力の光明は、法界に周遍し未来際を尽くすところのものである。
信心とて、「阿弥陀さまが尊い尊い御方である」と仰がせていただき、常に憶念称讃し奉る以外のものではない。念佛はすなわち南無阿弥陀佛である。
南無阿弥陀佛の本願招喚の勅命、如来の本願力、すなわち大悲の御念力が極楽の道であるのに、こちらの方で「信心を得よう」とかかるものだから、南無阿弥陀佛の本願力に背を向けて逃げ出したことになるのである。
逃げても逃げても、逃がさぬ親様は、逃ぐるものを追いかけ追いかけ、久遠の昔から追いかけ通しで、
「極楽の道は一すじ 南無阿弥陀佛 お前の親はここにおるぞ」
と、叫び続けておられるのである。それでも衆生の方は「どうしたらよいか」「どうしたら信ぜられるか」「『このまま』では助かりそうにもない」というのが一般の人の心中である。
信心は「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」である、どこまでいっても、いつも始めから終わりまで「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」である。
本願力の南無阿弥陀佛は、そのまま阿弥陀如来の不可思議功徳力であるから、衆生を助ける力がある。助ける力は如来様の方にあるのに、自分がとやかくはからうから、往生を仕損ずるのである。
「ああそうか」「分かった」「これでよし」「これではいかん」「聞いた」「聞こえた」などと、何十年思いはかろうていても、所詮それは凡夫の思いである。凡夫の思いでは助からぬ。
如来の誓願不思議、不可思議の誓願力で助けられるのである。南無阿弥陀佛の威神功徳不可思議力で助かるのである。
助かる法が凡夫で分かるものか。分かったら誓願不思議とは言わぬ。また不可思議の誓願力とも言わぬ。
不可思議功徳の南無阿弥陀佛親様に遇わせていただいたら、分からぬけれども安心がひとりでにできる。
稲垣瑞劔師「法雷」第70号(1982年10月発行)
2 件のコメント:
「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」
とありますが、
つねにこれ一つであるということは、
これが、仏法の始まりであり、仏法の終わりであるということです。
さらに、約めれば「南無阿弥陀」一つということになります。
「誓願不思議」と「南無阿弥陀佛」が一つになるのですね。ここが、理屈をこね回さずに一つに融け合うというのが、味わい深い、不思議不思議である。
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