親鸞聖人の御撰述の書を拝見すると、大事なお聖教の巻頭の御文には、聖人の全力、全生命が打ち込まれているように思われる。聖人の主著『教行信証』総序に曰く、
「竊かにおもんみれば、
難思の弘誓は難度海(生死の大海)を度する大船、
無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
と。「難思の弘誓は難度海を度する大船」とは、どういう意味であるか。つらつら案ずるに、その趣旨は『歎異抄』第一章の、
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいゐらせて往生をばとぐるなり」
と同じ意味である。「難思の弘誓」は「誓願不思議」である。「難思の弘誓」(因)は阿弥陀如来の大悲心であり、願心である。「無碍の光明」(果)は本願力の「力」である。因果不二にして一本願力であり、一南無阿弥陀佛である。
ここに聖人が全生命をかけて、かく断定しておられることに着眼すべきである。この外に佛法なく、この外に「生死出づべき道」がないという聖人の思し召しである。
一句の法門を、短いから簡単であるからといって、これを粗末にするものは、遂に生死を出ずることが出来ないであろう。生死出づべき道はこの外にない。
聖人が「難思の弘誓一つである」「誓願不思議一つである」と仰せられているのに、何をうろうろ千言万句を探し求めておったのであろうか。一句に腹のふくれぬものは、恐らく千言万句を聞いても物足りなく思うであろう。
今にして思い当たることは、私の三十七歳の時、父久太郎が亡くなった。亡くなってからおよそ一ヵ月ほど経ったある夜、夢の中に父が現れて、
「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり、
これじゃぞ、ここやぞ」
といって、そのまま消え失せてしまった。親というものは有難いものである。
その後五十余年間、この聖句を思念し、憶念しておる。ただ憶念させてもらっておる。無尽の味わいがこのうちにある。如来の生命がこのうちにある。同時に一切衆生の往生がこのうちにある。
『歎異抄』に縁のある人は
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいゐらせて往生をばとぐるなり」
の聖句を何十年と憶念するがよい。「弥陀」と「誓願不思議」との間に何物もはさまれていない。「誓願不思議」と「たすけられまゐらせて」の間にも、何物も差しはさまれていない。そこのところが有り難い。憶念のうちに信心がある。憶念が信心である、念佛である。「念佛は則ち是れ南無阿弥陀佛」である。
稲垣瑞劔師「法雷」第71号(1982年11月発行)
2 件のコメント:
憶念のうちに信心がある。憶念が信心である、念佛である。
とありますが、
「憶念」は、仏教用語では、「忘れない」だけでなく、さらに「思い起こす」という意味で使用され、
対象に心をとどめて忘れずに思い起こすこと、特に、阿弥陀仏の功徳や本願を思い起こすことをいう。
とありますから、まさに憶念が信心であり、念仏であります。
「憶念の心つねにして 佛恩報ずるおもひあり」
と常に思い起こすことも、「ここじゃ、これじゃ」の力強いお示しのおかげです。
先師の言葉のありがたさ、お慈悲の深さを思います。
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