2023年3月25日土曜日

大悲の家に相住まい

 女は三界に家無しというが女だけでない、念佛の行者も三界に家なしである。否、三千大千世界に、一定の家というては無い。如来の光明裡が家である。本願力のはたらきが家である。名号の功徳大宝海が家である。苦しみと、楽しさとは問うところではない。度すべき衆生の居るところが家である。それが大悲の家である。
 命が終わるまで待たずに、早や今から大悲の家に如来と相住まい、共働きである。それを常行大悲の益という。これでこそ真宗が佛法中の佛法であると言える。

 安心の上で心の落ち着き場所といえば、如来本願の「よびごえ」が、私の心の落処である。この外、心の落ち着く場所はない。
 この五尺の身は日々苦惱の娑婆の苦しみを嘗めつつあるが、如来の「よびごえ」の中から、お浄土が覗き見られる心地がする。如来の願力に、はからわれて、命終われば安養の浄土。この如来の願力こそ、私の心の落ち着き場所である。
 これは一時の宿屋ではない。法身常住のいのちの続く限り、かわることのない我が家である。如来の無量寿と無量光の家に、如来と相住まい。これほど楽しい家はない。生死の嵐も罪業の津波も、この家には寄せつけぬ。いつも無上の大楽を味わうのである。
 さりとて、迷いの世界には苦悩の群生が居る。その中へ、無量寿・無量光の着物を被て飛び込んでゆく。もはや火にも焼けず、水に溺れることなき身であれば、思いのまま衆生済度ができる。苦しみの中の楽しみというのは是れである。

 佛法の上からは、苦楽を超えて、本願力のまにまに、火の中へでも水の中へでも飛び込んでゆく仕事が、それが永久の家であり、落ち着き場所である。
 念佛行者はこの仕事をすでにいただいて、ぼつぼつ身に合うただけ、今日からさせてもらうておる。これがまた、何とも言えぬ楽しみである。

稲垣瑞劔師「法雷」第70号(1982年10月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

女は三界に家無し
とありますが、

女は、幼少の頃は親に従い、嫁になると夫に従い、老婆になると子に従う、
生涯にわたり、どこへ行っても落ち着くところが無いことを言っています。
しかし、ずっと従うものがあること、ずっと頼りにするものがあること、
このことは本当は良いことだなと思います。
ずっと寄りかけられるものがあるのは、とても安心できますから。

光瑞寺 さんのコメント...

願力のよびごえが私の住まいでありましたか、ここがお前の家じゃと懐に抱いてくださいますか。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...