女は三界に家無しというが女だけでない、念佛の行者も三界に家なしである。否、三千大千世界に、一定の家というては無い。如来の光明裡が家である。本願力のはたらきが家である。名号の功徳大宝海が家である。苦しみと、楽しさとは問うところではない。度すべき衆生の居るところが家である。それが大悲の家である。
命が終わるまで待たずに、早や今から大悲の家に如来と相住まい、共働きである。それを常行大悲の益という。これでこそ真宗が佛法中の佛法であると言える。
安心の上で心の落ち着き場所といえば、如来本願の「よびごえ」が、私の心の落処である。この外、心の落ち着く場所はない。
この五尺の身は日々苦惱の娑婆の苦しみを嘗めつつあるが、如来の「よびごえ」の中から、お浄土が覗き見られる心地がする。如来の願力に、はからわれて、命終われば安養の浄土。この如来の願力こそ、私の心の落ち着き場所である。
これは一時の宿屋ではない。法身常住のいのちの続く限り、かわることのない我が家である。如来の無量寿と無量光の家に、如来と相住まい。これほど楽しい家はない。生死の嵐も罪業の津波も、この家には寄せつけぬ。いつも無上の大楽を味わうのである。
さりとて、迷いの世界には苦悩の群生が居る。その中へ、無量寿・無量光の着物を被て飛び込んでゆく。もはや火にも焼けず、水に溺れることなき身であれば、思いのまま衆生済度ができる。苦しみの中の楽しみというのは是れである。
佛法の上からは、苦楽を超えて、本願力のまにまに、火の中へでも水の中へでも飛び込んでゆく仕事が、それが永久の家であり、落ち着き場所である。
念佛行者はこの仕事をすでにいただいて、ぼつぼつ身に合うただけ、今日からさせてもらうておる。これがまた、何とも言えぬ楽しみである。
稲垣瑞劔師「法雷」第70号(1982年10月発行)
2 件のコメント:
女は三界に家無し
とありますが、
女は、幼少の頃は親に従い、嫁になると夫に従い、老婆になると子に従う、
生涯にわたり、どこへ行っても落ち着くところが無いことを言っています。
しかし、ずっと従うものがあること、ずっと頼りにするものがあること、
このことは本当は良いことだなと思います。
ずっと寄りかけられるものがあるのは、とても安心できますから。
願力のよびごえが私の住まいでありましたか、ここがお前の家じゃと懐に抱いてくださいますか。
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