大智大悲は絶対の善である。絶対の善に対する、衆生のための現象の世界は「浄土」である。
「佛」を論ずるにしても「浄土」を説くにしても、絶対の善であるところの大智大悲が、その根本であり、地盤である。
ところで、佛はその大智大悲の絶対善をどこから、どうして得られたのであるか。これが大問題である。佛はどこから生まれたのであるか。浄土の法門はどこから生まれたのであるか。これが大問題である。
キリスト教では、何もかも神から出で、神の為したもうところであるといえば、不完全ながらそれで一応の説明はつくが、佛教は真理の宗教なるが故に、そう簡単には片付けられない。
阿弥陀如来は、絶対の真理、すなわち「真如」から生まれられた。
「証巻」に曰く、
「然れば弥陀如来は如(真如、絶対の真理)より来生して、報・応・化種々の身を示現したもう」
と。
『教行信証』の大法門はどこから生まれたか。これまた、真如から生まれたのである。
「行巻」に曰く、
「大行(南無阿弥陀佛)は・・・真如一実の功徳宝海なり」
と。「信巻」に曰く、
「大信心は・・・真如一実の信海なり」
と。「証巻」に曰く、
「真実の証を顕さば、則ち是れ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり」
と。「無上涅槃」とは絶対の真理である。
「教」すなわち『大無量寿経』はどこから生まれたかといえば、釈迦如来の大寂定、すなわち禅定(弥陀三昧)から生まれたのである。「大寂定」は絶対の真理の世界である。
しかれば『教行信証』の大法門は、これすなわち法界の絶対の真理から生まれたのである。絶対の真利から生まれた法門を、「性海自然の法門」といい、「称性の法門」(法性に称(かな)った法門)という。
浄土真宗は、普遍的・絶対の真理であるところの法性から、法性それ自身の功徳力用が、自然に凡夫の濁悪なる世界に顕現したものである。その顕現した法門が「教行信証」である。
これを真理の顕現といってもよいが、真宗では「佛智の顕現」「大悲の顕現」「果上(佛の涅槃界)顕現」という。「称性の法門」とはこの意味である。
稲垣瑞劔師「法雷」第37号(1980年1月発行)
2 件のコメント:
「普遍的・絶対の真理であるところの法性」とありますが、
法性について、『教行信証』証の巻には、
「実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。」
とありました。
それまで、崇高だけど無味乾燥した専門用語だった「真如」「法性」。それが、真如それ自身が活動して凡夫界に顕れ、佛を生み、法門を生み、私の無明を破る。最初にこんな話を聞いたときは呆気にとられました。
コメントを投稿