誓願不思議は、如来の「ことば」であり、如来の「こころ」であり、如来の「念力」であり、「本願力」であり、「佛智の不思議」であり、また是れ如来の「大慈悲力」である。凝って南無阿弥陀佛となりたもうた。
親様の無量力功徳と、親様のまことと、佛智不思議のはたらきのほかに、往生極楽の道は絶対に無いのである。「信心がなければ往生はできぬ」と思い詰めておるものだから、その信心を取りにかかる。信心とて六字のほかになく、往生とて六字尊号、摂取不捨のほかにはない。一切衆生は、本願力一つで往生するのである。極楽の荘厳も本願力であり、南無阿弥陀佛である。
極楽は「広略相入」「第一義諦妙境界相」であるが、極楽の主は阿弥陀如来であることを忘れてはならぬ。天親菩薩の『浄土論』に曰く、
「佛の本願力を観ずる(心に浮かべ見る)に、遇うて空しく過ぐる者なし。能く速やかに功徳の大宝海(南無阿弥陀佛)を(身心に)満足せしむ」
と。「本願力」の一言は、見るでなく、読むでなく、全生命、否、久遠劫来の全生命をぶち込んで、よくよく味わうべきである。
本願力を以て三種荘厳の体とする。本願力によって浄土は建立せられ、本願力によって往生せしめたもう。それなのに「信心取って」と踏み出すから、信心も得られず、浄土に往生することもできないのである。
信心はこんなものである、と始めから心の中に描くのでない。御回向にあずかって、「これはこれは」と誓願不思議の南無阿弥陀佛に還って、敬恭の頭を垂れるのである。
稲垣瑞劔師「法雷」第72号(1982年12月発行)
2 件のコメント:
我が子を思うから心配する。 理解してあげたい。一生懸命話をしてくるその姿を見ながら 心の中が見えたらもっともっと分かって上げる、りのにと常に思います。
思いますにその心配は、我が子の心が分かるからこそのご心配なのでしょうね。
幼い心の、清らかさや柔かさ、まぶしさに触れたなら、これを守らずにはおれなくなるのでしょう。
そのあふれるほどの愛おしさに、もう子どもさんの心は守られているはずです。
そして願わくは、その輝きが曇ることのない世界をこれからも与えてあげたい。
そのためには、子ども以上に大人の心がきよらかでなければなりません。
濁世と言われるこの世の中で、佛さまの慈悲の心に温められ、佛さまの智慧の言葉に導かれ、つまづきながらも真っ直ぐに歩むひとの姿に、子どもはどことなく安心するのではないでしょうか。
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