「信心取って参ろう」「念佛称えて参ろう」「うれしくなって参ろう」「有難くなって参ろう」「よい心になって参ろう」などと、変わり通しの凡夫の心に、何か変わらぬ有難そうなものが出来たら信心を得た証拠であるから、それで参られるであろうと思うているのは大間違いである。
「心は変わりづめ」「妄念は凡夫の地体」「煩悩具足の凡夫」「落ちるのは私」と腹が極まったら、「有難そうなもの」を見付けようと思わなくてもよいでないか。
「このまま」と仰せられたら、有難くない「このまま」、腹の立つ「このまま」、欲の出る「このまま」、死にとみない「このまま」、何にも分からぬ「このまま」、地獄へ落ちる「このまま」、生まれた赤児の「このまま」、人間の思いも行いも何にも役に立たぬ「このまま」で、お浄土へ参らせていただくのである。
そんな「このまま」で、どうして参られるか。参られない、参られないに極まっておる。参られないに極まっておる者を、参らせねばおかぬの「本願力」があるから、参られぬ者が参られるのである。
そのとき初めて「本願力は大きいでなあ」と、心の底からよろこびが湧いてくる。
そのとき初めて、「本願力は大きいでなあ」の味わいが味わえるであろう。
「本願力は大きいでなあ」とは、説教で言う言葉でなく、他人様にさとす言葉でもなく、自分が、今臨終で、聞く力も、信ずる力も、何もかも、力という力は無くなってしまって、真っ暗闇が出てきたとき、お浄土から聞こえてくる如来様の「ことば」である。その声が身にも心にも沁みわたると、
「本願力は大きいでなあ、私のような愚かものでも、聞いたおぼえのない私でも、信じたおぼえのない私でも参らせていただくとは、有り難い」
と、よろこびのお念佛が、ひとりでに湧いて出てくださる。念佛の声もろともに往生するのである。
稲垣瑞劔師「法雷」第83号(1983年11月発行)
3 件のコメント:
お浄土に行くのに信心がないと駄目だろう、と思っているのが間違っているのです。
何にも要らんのです
おまかせです
つい「有り難くなって」「善い心になって」と動きます。
好きなんでしょうね、これが。
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