それは、不思議の佛智を「不思議だなあ!」と信ずる外にはない。「不思議だなあ!」と心に思い、声にあらわれてこそ生ける宗教がある。生ける信心がある。
たとい百万巻の書を読み、何十年聴聞しても、最後に「不思議だなあ」と声が挙げられないようでは、それはまだ「分かった」という程度であって、信心でも安心でも何でもない。その「分かった」というのも、理屈の上で少しばかり分かったというのみであって、佛法、佛道の上で分かったのではない。
その種の信心は「若存若亡」であったり、絶えず心の奥底から生死未解決の証拠であるところの「もやもやしたもの」が飛び出すのである。「もやもや」がまた取り切れぬのに、「そのまま」「このまま」「それを目当ての御本願」ということはない。「明信佛智」の暁に出てこそ安心もあり、満足もあり、歓喜もあるのである。
佛語を重く見、尊く思って、佛語を通し、佛語を噛みしめ、味わい味わって、そこから佛様の無限性を望み、功徳の大宝海を心身にいただくのでなければ、到底「もやもや」は取り切れないであろう。
まあまあ一生涯、心血を注いで「佛」と「佛心」とを学ぶべきである。
稲垣瑞劔師「法雷」第10号(1977年10月発行)
2 件のコメント:
真宗の信心の説明は、たくさんありますが、「願力摂取」とありましたので、
次の御文を引用させていただきました。
真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。
(一念多念証文)
「願力摂取」と聞くとかたい印象を受けますが、「無碍光佛の御こころのうちに・・・」というと身に沁みて味わわれてまいります。絶妙の一文を引いて下さいました。
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