2020年9月5日土曜日

摂取不捨の真言、超世希有の正法

 助かるのは「親さまのまこと」で助かるのである。
 「願力の不思議」で助かるのである。
 よんで下さるから参られるのである。

 眼がつかぬか。
 眼がついたら「忝うございます」より外はあるまい。
 眼がついたら懺悔の念佛と、讃嘆のお念佛より外はあるまい。
 百万劫に一たび眼がつくのである。
 それを「真実の浄信は億劫にも獲叵し」と仰せられたのである。

 先年亡くなられた滋賀県犬上郡甲良町長寺の北川孫兵衛さん(昭和36年10月14日往生 83歳)は臨終に、
 「先生、御安心は易いようじゃが、むつかしいものですねえ!」
と申された。また、
 「親様がなあ!」
と申された。一生涯の聴聞は「親様がなあ!」のことばのうちにおさめられてある。
 あの光った眼、よろこびの顔。大心海より流れあらわれた、あの歓喜のお念佛の声が、今もなお、まざまざと眼に見える心地がする。

 大阪東住吉区西今川町の松根和吉さんは、昭和37年1月25日に89歳で往生された。その夜長男の正雄さんに、夢に現れて、
 「正雄、正雄。人並みに聞いたら人並みに落ちるぞ。仕事はいつまでも一生涯あるから、時をつくって聞けよ」
というて消えてしまった。
 このことを正雄さんから私が聞いたのは同年3月11日であった。「人並みに聞いたら人並みに落ちるぞ」の一言は千鈞の値打ちがある。

稲垣瑞劔師「法雷」第15号(1978年3月発行)

0 件のコメント:

死の解決㈢

 世の人は「救い」「救い」と言っておるが、「救い」とは何であるか、殆どすべての人が「救い」を知らない。死を宣告された人から見ると、五欲街道の修理は「救い」でない。  真の救いは、救う人と同じ境地に到達してこそ「救われた」と言えるのである。あるいは、救う人の境地に必ず行けるという大...