2020年9月24日木曜日

本願海より建立せるがゆえに

 親鸞聖人は、大信心を決定して、すなわち如来よりの霊感を得、如来の大悲心が徹到して、しかる後に大藏経を見なおされると、文々句々、如来の大智海の波瀾とみられ、経々悉く本願海をあらわすものであることが知られたのである。この大信眼を以て書かれたものが、『教行信証』一部六篇の珠玉である。

 我等もまず如来の大悲本願力にめざめて、御本典を拝見し、和讃などを拝見すると、なるほどなるほどと合点がゆき、文々これ皆、聖人の法身と拝せらるのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第16号(1978年4月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「如来の大悲心」とあり、教行信証真仏土巻より、

慈悲に三縁あり。一つには衆生縁、これ小悲なり。二つには法縁、これ中悲なり。三つには無縁、これ大悲なり。大悲はすなはちこれ出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆゑなればなり。ゆゑにこの大悲をいひて浄土の根とす。
とありました。

無縁とは、差別の見解を離れた平等絶対の慈悲です。

光瑞寺 さんのコメント...

「無縁」の意味を「救う手立ての絶えた者にさえも及ばんとする慈しみ」とお聞かせ頂いたことがあります。

俗にも「縁無き衆生は度しがたし」と言いますが、その度しがたしとされた衆生を済度するところに「無縁の大悲」の超絶性を聞かせて頂いたことです。

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